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第2話 元悪女は、告白される(2)


 篤との会話の後、心の中に行き交う様々な考えに、紗希は翻弄される。


(篤お兄さんが、私のことを好きだった? でも、前世ではまるで接触がなかったわ。どうして? この3年で私が篤お兄さんの心が何か変わるようなことをしてしまった……?)


 篤に触れられた耳元の髪を手櫛で何度も直しながら、紗希は深呼吸を心掛けた。

 死に戻ったのだと自覚してから、紗希はありとあらゆる手で、自分の認識に誤りがないかを調べている。

 そして記録を付けるのも忘れずにおこなった。たとえばプライベート用のスマートフォンにはこれまでの行動がびっしり書き込んである。

 だからこそ礼司も救えたはずだったし、莉々果との関係も改善できた。静枝が認めてくれるくらい、自分の立ち居振る舞いを良いものにできたという自負もある。

 それは紗希が知る『未来』や『過去』に齟齬がなかったから、できたこと。

 しかし前提が覆ってしまえば、紗希には指標となるものがない。

 現に、昇吾は紗希の考えに反し婚約解消を拒否し、それどころか紗希に気持ちを向けつつあることを示してくれている。前世ではありえなかった青木家の茶会にまで、紗希を招いてくれた。


(……どうすればいいの?)


 誰に問いかけることもできず、紗希はその場に立ち尽くしてしまう。


「あのう……」


 おそるおそる、という様子で、部屋の外にずっと立っていたらしい篤のマネージャーが、紗希の顔を見た。紗希は部屋の中で待機している篤に動揺を気づかれないよう、できるだけ穏やかな表情を心がけ、彼女に言う。


「関口さん。白川さんは、私、蘇我紗希の個人的な友人なんです。かなり幼いころの話なので、最近は連絡を取っていなかったのですが、白川さんはとても強く覚えていてくださったみたいで、お話をしたくなったようです」

「紗希……あぁ……やっぱり、本当にあなたが白川の言う紗希ちゃんなんですね……」


 しみじみと呟いた関口に、紗希は首を傾げた。すると関口が苦笑を浮かべる。


「白川から、何度もあなたの話を聞いているんですよ……」


彼女は、篤に聞こえないよう小声で言う。


「……私は白川が『未来へ進みたくない』と自らの生涯を閉じようと行動してしまった時にも、マネージャーとして彼にかかわっていました。二人三脚でつかんだ芸能界だった。だからずっとあなたに感謝していたんです。お母さまがで亡くなった後にも関わらず、あなたは白川にずっとついていてくださった。だから彼は、自分の生涯を自分で閉じず、改めて考え直すことができたんです。……本当に、感謝してもしきれません」


 涙を浮かべかけながら言う関口に、紗希は改めて自分の考えに確信を持った。


 紗希の中の記憶と、現実の過去にあった出来事に、食い違いが起きている


 関口が篤に昔からついていたマネージャーならば、紗希との出来事を詳しく知っているのは納得できる。篤が俳優として活動を始めたのは、高校生より前だったからだ。

 彼女まで、紗希の母・琴美の死因について『心不全』だったと記憶しているのであれば、他の人もそう記憶している可能性が高い。ひょっとすれば、本当に紗希の中にある『自殺』という記憶の方が、おかしいのかもしれない。

 では、どうして紗希は『自殺』と考えたのか。


(理由が説明できない……)


紗希は頭の中に次々とわき続ける疑問と恐怖心に、押しつぶされそうだった。


(私、当たり前のことを見落としてきたんだわ……死に戻ることでどんなことが起きるのか、私は全く知らない!)


 篤や昇吾の心までは、紗希が動かすことはできない。そして紗希が知らない『未来』や『過去』については、避けることができない。

 自分はこれからどのような未来に踏み出すのだろう。

 今、自分が立っているオフィスの床がひどく頼りないものに思えてきて、紗希は口元に手を当てた。

吐き気が込みあがる。

 気づかわしそうに関口が紗希に問いかけた。


「どうしましたか?」

「っ、いえ、その、母のことを思い出してしまって……」


 関口は申し訳なさそうな表情を浮かべた。紗希は内心で母と関口、そして篤お兄さんへと謝りながら言う。


「トイレに行ってきます。白川様に、よろしくお伝えください……」


 急いで紗希はトイレへ向かった。トイレの天井にある人感センサーつきのライトが、パッ、とともる。個室のドアはどれも開きっぱなしで、確実に誰もいないと分かった。

 紗希は奥の個室に滑り込むと、ハンカチを口元に押し当て、便器の前にしゃがみ込む。


「う、ぐっ……!」


 脂汗がにじむ。喉奥からせりあがる酸味のある臭いが、紗希を苦しめた。

 ある考えが、頭の中にこびりついて払えない。


── そもそも、いくら未来の出来事を知っていたとしても、運命は変えられないのではないか?


 紗希は息を吐き出すことに集中する。込みあがる吐き気が頂点に達し、口の奥から昼間に食べた物の味が唾液とともに落ちていくのが見えた。


(だめ、落ち着いて……私は……わたしは……)


 自分はどうしたいのだろう。

 紗希の中で昇吾と一緒に軽井沢で過ごした日々が思い起こされる。彼は自分に対し、真っすぐに向き合ってくれた。紗希が愛しているのは昇吾本人なのか、それとも前世での昇吾なのか、真剣に。


 今の昇吾自身に対し、紗希はどうしたいのか。


 真琴の気持ちと紗希への気持ちは別だと打ちあけてくれた彼に、キスをするのを待っていてくれた彼に、これからも婚約解消を願い続けるべきなのか。

 婚約解消を願う理由を、言ってしまうべきなのか。


(でも、話がありえなさすぎるじゃない……あと2年したら、私は死んでしまうかもしれないだなんて……)


 深く紗希はため息をつく。一度吐いたおかげで、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。

 とにかく今の紗希には前を見て、ほんのちょっとずつでも歩き続けるほかないのだから。

 何とか気持ちを整えてから、紗希は吐いたものを流し、出るタイミングをうかがう。外では特に騒ぎが起きている様子はない。おそらくもう、篤は立ち去った後だろう。だが、出ていく気持ちになれなかった。

 ぼんやりと天井を見上げたとき、右腕に着けたスマートウォッチが振動する。何気なくスマートウォッチの画面を見た紗希は、目を見開いた。


「えっ……昇吾さん?」


 昇吾からのメールだ。プライベート用のメールアドレスに、彼からのメールが入っている。思わず通知欄をタップして内容を確認した。


「……『母に用があり、軽井沢に来ている。写真を送っておく』」


 画像が添付されていることを示すマークがある。その画像までは、紗希のスマートウォッチでは見ることができない。高価な機種ではなく、堅実で電池持ちのよいものを選んだためだ。

 それでも、昇吾からメールをもらえたことに紗希の心はふわりと軽くなるのが分かった。前世では昇吾とのメールはあくまでも形式上のもので、紗希の個人用のアドレスに贈られたことなど、一度もなかった。


(……昇吾さんは、今を生きている)


 なら紗希が、今を生きなくてどうする。


(今も、前世も変わらないのは、彼を好きという気持ちだけ……!)


 胸の奥に温かいものが広がっていく。逃げられない底なし沼ではなく、不確かな地面でもなく、紗希は間違いなく未来に立っている。そして紗希自身が、変えようと動き続けている。

 ならまずは、どうして紗希の中に母の死に関して、2つの記憶があるのか、理由をきちんと確かめなくてはならない。

 紗希はすぐにトイレを出て身支度を整えると、午後からの仕事にまい進するのだった。



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