オフィス全体に流れる穏やかなBGMが、今の紗希には耳障りに思えた。
(今、彼は、なんて……?)
白川篤が、自分に告白をした。
「僕はあなたが好きだ。どうか結婚を前提に付き合ってほしい」
何度思い出しても、そうとしか聞こえなかった。
紗希の頭の中が真っ白になっていく。篤が誰かと付き合っているという噂は聞いた試しがない。でも、だとしても、どうして自分に突如として告白してきたのか。
それに。前世では白川篤と接触する機会こそあれ、今日のように過去のことを持ち出された試しがなかった。紗希が昇吾しか見えていなかっただけ、とは到底思えない。
あまりにも突然の出来事で理解が追い付かず、返事はおろか身動きさえ取れなくなる。
篤はニコニコとしたまま、紗希を見つめていた。
「まだ思い出せてもらえてないことが、いくつかありそうだね」
「どういう、意味ですか……?」
恐る恐る聞き返しながら、紗希はハッとして言う。
「まさか幼い私が、篤お兄さんと結婚したいなどと言い出したのでは……?」
「ふふっ、いや、違うよ」
小さく笑いながら篤が言う。
「僕らはあの島で、何度も話をしたんだ。その中で僕は救われた。……君は覚えていないかもしれないけれど、海辺で幾度となく話した君の言葉に、間違いなく救われたんだよ」
少し寂しそうに言ってから、篤は黙り込む。
その沈黙を前に紗希は思い出せない自分を不甲斐なく感じ、小さく唇を噛んだ。すると。
「……本当に、あの時も君は気丈だったね。
何を言われたのか分からず、紗希は呆然と篤の顔を見つめ返した。
篤が不思議そうに首をかしげる。
「どうしたの?」
「いえ……その、覚えていてくださったんだな、と」
「何度も話したからね」
紗希は篤に頷きながらも、違和感に考え込んだ。
(心不全? お母さまが?
ハッとして、紗希は思い返す。
青木家の茶会に参加したとき、紗希は静枝との会話で『病気で亡くなった母』として琴美を認識していた。
だが、紗希が思い返す記憶の中の琴美は『自殺』したことになっている。特に、篤に関連した記憶の中では、琴美が自殺していたからこそ、自殺を考えてしまった篤に寄り添えたという記憶がはっきりと残っていた。
(……どういうこと?)
まさか母を亡くした記憶が、2つある?
思いがけない状況に、紗希は必死に考えを巡らせる。
「大丈夫? 紗希ちゃん」
「えっ、ああ……大丈夫。少し、考え事をしていただけで……」
少し寂しそうに、篤は目を伏せた。
「君の心にはやっぱり、昇吾くんがいるのかな」
呟かれた言葉に、すぐに紗希は頷いてしまった。あっ、と思った時には、篤は寂し気な笑みを深めただけだった。
彼はそれほどまでに、自分のことを好きなのだろうか。
なら、その気持ちの重さに向き合うべきではないか。紗希は口を開く。
「好きか嫌いかで問われたら、私は篤お兄さんのことが好きです。でもそれは、苦しい時間を共に過ごした友人としての好きであって、昇吾様への気持ちとは異なります。……あの夏、2人で泣いてしまった時のように……とても穏やかで、きれいで、優しい気持ち。それが、私が篤お兄さんへ向ける気持ちです」
口にすればするほど、紗希の中で昇吾への想いが膨らむのが分かった。
口元が自然とほころんで、顔が笑みを浮かべていくのが分かる。
昇吾が頬へ手を添え、緩やかに顔を近づいてくる瞬間の感触がよみがえり、胸の奥が熱くなる。
── たとえ死んでも想い続けられるのは、昇吾だけだ。
篤がため息をついた。何かを諦めるような、物寂し気なものだった。
「そうか。でも、それでも、本当にいつか、いつか君が僕を見てもいいと思えたら、これを使って」
少しぬくもりを帯びた紙には、携帯電話の番号が書かれていた。紗希は目を見張る。絶対に受け取ってはいけない、という思いとともに篤を見つめると、今にも泣き出しそうな彼と目があった。
(……篤お兄さん)
一緒に泣いたあの日を思い出すと、どうしても強く突き返せなかった。
違う痛みだが、紗希と篤は一緒に苦しんだ仲間だ。どこにも打ち明けられない気持ちを抱えて、二人で一緒に泣きじゃくった。
(……捨てるなんて、できない)
選択肢そのものが誤っている可能性を考えながらも、紗希は紙片を受け取る。
そしてゆっくりと、篤に伝えた。
「分かりました。一応、受け取っておきます」
「ありがとう。それだけでも、僕は救われるよ」
篤は嬉しそうに頷く。端正な顔立ちに影が落ちた。
「……── でも、やっぱり少し、悔しいよ。僕の方が絶対に、君を好きなのに」
あまりにも真っすぐな言葉に、紗希は立ち去るのをためらってしまう。
「僕を選んでくれたなら、絶対に君を幸せにする。だけど昇吾の奴にも君を幸せにできるだけの力がないわけじゃない……だからこそ、君が幸せになれないなら。華崎真琴のように君の幸せを邪魔する人間が現れ、もしも昇吾がそちらを選ぶのなら……」
篤は紗希を正面から抱き寄せるようにして、耳元に唇を寄せた。紗希はぞっとして周囲を警戒する。
こんな場面を誰かに見られたら、紗希はもちろんのこと、篤だって醜聞を避けられないだろう。篤からしたらここは取引先の会社で、紗希にとっての職場だ。
いくら2人の実家が関係性の深い家柄であったとしても、以前からこのように親しかったわけではない。
「篤お兄さん……っ!」
逃げようとした紗希の耳に、熱い吐息が吹きかけられる。感じたことのない熱を、体の奥に呼び覚ますような気配がして、紗希はその場に硬直する。
「……僕は君を奪ってみせる。絶対にね」
篤は穏やかに微笑んでいた。だが、目だけは本気だった。
初めて篤に対して恐怖を感じてしまった紗希が固まっていると、ぱっ、と篤が微笑んだ。落ち着いた様子で、先ほどまでとは打って変わって、目元まで穏やかな笑顔を見せている。
「ごめんね、紗希ちゃん。怖がらせるつもりはなかったんだ。僕は君が幸せならそれでいいから」
紗希はこくんと頷いた。篤が重ねて言う。
「でも……もし、本当にどうしようもなくなったら、いつでも僕を頼ってほしい。絶対に君を守るよ」
「……どうお答えしていいか、分かりません。それより、次のお仕事の時間は問題ありませんか?」
「……ああ、そうだね……関口さんに怒られちゃいそうだな。とにかく僕が紗希ちゃんに個人的な理由で会いたかったって伝えてくれたら、それで納得だから」
紗希は篤に深々と頭を下げ、震える膝に喝を入れながら部屋を出た。