二人が泣き止んだのは、ずいぶん後のことだった。
両親に事情を説明すべく、支配人が部屋から去ると、その場に立ちすくんだまま動かない。紗希は篤のスマホを彼の鞄にしまい込み、その手を引いて自分が宿泊している部屋へと案内することにした。もちろん、スタッフには声をかけている。
「ここは私の部屋です。おかけになってください」
「……ありがとう」
篤は素直にソファに腰かけた。紗希も向かい側に座ってから、そっと声をかける。
「あの、何か飲みます? お水とか……」
「う、ううん。気にしないで」
微笑みかける篤に、紗希はどうしようかと悩んだ。何か気の利く言葉をかけたいが、言葉が出てこない。そのまま沈黙してしまうのが怖かった紗希は、思い切って切り出す。
「あの……白川様は」
「……僕のことは、篤って呼んでよ」
「えっ、ですが」
「ごめんね。少しいろいろ考えていて、今は……白川って呼ばれたくないんだ」
だからそう呼んでくれると嬉しいな、と彼は言った。紗希は頷きながら考える。
篤は何か理由があって、役者の仕事から離れているようだ。彼自身の努力もなければ、あれほど成功はできないとも感じる。
しかし、白川家としては、長男の彼に次の白川家を背負ってほしいだろう。もしも家の都合で、好きだったはずの役者の仕事から引き離されたならば、今の彼が白川という姓で呼ばれて心安らぐとは思えない。
紗希は再び口を開いた。
「では、篤お兄さんと呼ばせていただきますね」
「お兄さん……ふふっ、うん、もちろん」
穏やかな雰囲気が漂い始める中、今度は篤が切り出す。
「君の……紗希ちゃんのお母さんのことは、蘇我家の人から少し聞いてるんだ」
「……はい」
「その……君をたぶん、ひどく怖がらせたと思う。ごめん」
篤の言葉に、紗希は驚いた。まさか自分の行動について謝罪されるとは思わずに、思わず口をつぐむ。
死を選ぼうとするほど追い詰められたのに、人を思いやれる篤のことを、紗希は素直に尊敬していた。
「軽い気持ちだったんだ。白川建設の広報部の人と仲良くなって、試しにCM撮影をしないかって言われて、参加したらすごく楽しかった。小さい時から演劇は好きだったし、自分を通じて物語や企業がCMに込めたメッセージを表現することはとっても楽しかったんだ」
篤は言葉を切り、テーブルの上で両手を組んで握りしめた。まるで神様にでも祈るように、震えた声で言う。
「でも……役者を続けたいって気持ちが、ある日突然途切れたんだ」
紗希は思わず息をのむ。
母がなぜ自殺を選んだのか。紗希にはわからない。だが、それはまさに篤が今感じている葛藤そのものに違いないのだ。
いつもと変わらない日常。しかしどこかで、それが、ずれてしまった。
「俳優の仕事が好きで好きで仕方ないのに、突然嫌になったんだ。誰もわかってくれなかったけど、僕は本当に仕事が大好きだったし、誰かに喜んでもらうことも好きだった」
「はい……」
「でも……ある日突然、何もかも嫌になってしまった。仕事を休んで、この島でゆっくりするよう家族に進めてもらったけれど、気が付いたらこんなことに……」
篤の声は震えていた。
紗希には役者の世界はわからない。しかし、篤のような優しい人が、心を病んでしまうような出来事が起きる場所だということは伝わってきた。なんと返事をすればいいんだろう。紗希にはわからなかった。それでもただひたすらに、口を開ける。
吐息に混ざって、かすれた声が出た
「篤さんは、優しい人です。私の母のことを思って、自らの行動が私を怖がらせたとおっしゃいました。きっと何か、今はまだ言葉にできない重しが、篤さんの心にあるんです。私はその重しを取り除くことはできませんが、寄り添うことはきっとできます……」
紗希はそう言って、篤の手を握りしめた。
彼はわずかに微笑んで、
「ありがとう」
と、囁いた。
島の風が窓から吹き込む。穏やかな気配の中、二人はそれから長い時間、互いを癒すように手をつないでいた。
「……──思い出せた?」
間近で囁かれた言葉に、紗希はハッとして顔をあげた。
記憶の中の篤お兄さん、彼とは違う、でも彼だと分かる『白川篤』が、紗希の顔を覗き込んでいる。
(……あの後、篤お兄さんのご両親が迎えに来て、私にお礼を言ってくださった。それからのことは覚えていないし、連絡先も交換していなかったから、私も今の今までほとんど忘れていたに等しいわ)
ゆっくりと紗希が頷くと、篤はさらに嬉しそうな様子で、彼女の手を取った。
「えっ……」
ここは紗希が勤める、不動産関係の外資系企業『グリーン・リアリティ』のオフィス内。長い過去の回想から今に戻ってきた紗希を、キスできそうなほど近い距離で、篤が見つめていた。
瞬きも、眼差しも、彼の紗希への信頼を訴えかけるように穏やかだ。
篤は、紗希の右手をそっと持ち上げた。紗希の右手の上に自分のもう一方の手を重ねると、軽やかな口づけを自身の手の甲へ落としてみせる。
紗希はただ篤の振る舞いを見ていることしかできない。
「蘇我紗希さん。僕はあなたが好きだ。どうか結婚を前提に付き合ってほしい」
呆然と紗希は、篤の顔を見るしかなかった。