紗希はずっと彼の手を引いていた。震えながら涙をこらえる彼は、尋常な様子に思えない。
まずは彼の親御さんへ連絡を、などなど。大人たちがあわただしく動く中、紗希だけは彼のそばにいようと思っていた。
ところが、だ。
ホテルの裏口。従業員向けのホテルへ入ったころ、涙が落ち着いたらしい少年が、凛とした口調で支配人に話しかけた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません。自分、白川篤といいます」
そういって少年が、健康保険証を差し出した。
えっ、とホテルの支配人が大きな声をあげる。
「もしや白川建設のご長男、白川篤様でいらっしゃいますか……!?」
少年はなぜか、ホッとしたように頷いた。
「はい。その白川篤です。家の者に連絡させてください。その……島にある別荘に来ていたのですが、一人で、ええと、出てきてしまったので」
「……かしこまりました。直ちに」
慌ただしく大人が動いていく。紗希は隣に立つ少年の顔を、そっと見上げた。
どうしても紗希には、彼に見覚えがなかった。そう思ってしまうくらい、少年の顔形や雰囲気、服装は変わりすぎていた。
紗希は思い切って、彼に声をかける。
「あの」
「……何でしょう?」
「白川篤様ですよね? 以前、ご挨拶させていただきました……」
一瞬、彼の眉間に皺が寄ったのを紗希は見逃さなかった。
彼は、確かに白川篤というのだろう。だが、紗希の知る彼とはかけ離れた様子だ。記憶の中にある、明るくて爽やかな美少年の面影など見る影もない。
「いつお会いしましたか?」
「……お正月の行事です。蘇我家の者として、挨拶を」
「ごめんなさい。僕は貴方のことを覚えていないんです。助けてくれてありがとう」
今度こそ、はっきりと篤の眉間へ皺が寄る。
紗希は何か答えなくては、と思った。彼は何かに苦しんでいる。だから今のような自分を大切にできていない状態に追い込まれ、さらに自殺につながるような行動までした。
そして今は、紗希が声をかけてきたのを、何か勘違いしている様子だ。紗希はただ、心配して声をかけているが、篤には別の意味に聞こえているらしい。
たとえば。紗希が今の状況にかこつけて、篤との関係を迫ろうとしている、とか。
よくあることだ、と紗希は内心でため息をつく。
(この人も、私をそういう目で見ているのかしら……)
写真などで見る限り、中学生の紗希が持つ容姿は、どこか掴みどころのない美しさを持っていた。
母譲りだという漆黒の目に、深い夜のような黒髪。そして自身で運命を切り開こうとする強い信念を感じさせる、凛とした顔立ち。
それが決して、良い方へ動くとは限らないと、紗希は他人とのかかわりで強く理解していた。自分の容姿は、ミステリアスで冷淡な印象、狡猾さをイメージさせてしまうらしい。
ただ、中学生の頃の紗希には、そんなことはまだわかっていない。
心に走った痛みを抑え込んで、声をかける。
「私、紗希といいます。母が亡くなって、いろいろあって、このホテルに泊まっているんです」
絞り出した言葉に、篤がわずかに目を見開いた。
「……じゃあ、君が蘇我琴美さんの娘さん?」
「はい。……父の勧めもあり、こちらで療養していたのです」
話していると、篤が紗希の目を覗き込むようにした。彼の目は紗希の心の中を優しく見つめ、そっと包み込むようなあたたかな力を放っているように思える。俳優やモデルになるような少年だからこそ、こんな力を持っているのだろうか。
紗希の両目から、ぽろぽろと涙が落ち始める。篤がハッとして声をかけようとした瞬間、ホテルマンが一人、部屋に入ってきた。
「白川家のご両親が迎えに来るそうですよ」
「えっ」
篤が驚いた声をあげた。同時に彼は顔を青褪めさせ始めた。慌てたように椅子から立ち上がり、スマホを取り出すと何やら電話をかけ始める。
通話口の向こうにいる相手とのやりとりを聞くにつけ、どうやら両親に本当に何も言わず、ここへきているわけではなさそうだ。
「違う。僕が苦しくて、どうしようもなくて行動に出たんだ。みんなは許してやって、お願いだよ!」
紗希は考えを巡らせる。
(……そういえば、篤様は今、俳優業はお休みされているとどこかで聞いたわ。私と似たようなもので、ここに療養に来ているのかもしれない。だとしたら、今回の出来事の責任を取らされるのは)
紗希は自分のそばに立つホテルの支配人を見上げる。ハラハラとした様子で篤のやり取りを見守る彼……彼もまた、紗希が篤と同じような行動に出れば、責任を追及されてしまうかもしれない。
(こんな時まで、心を休められないなんて……そんなのあんまりだわ……)
紗希には、母の本心はわからない。自殺してしまった母の気持ちを、考えることはできない。時間が戻りでもしない限り、母を助けることはかなわないだろう。
でも、今目の前にいる篤には、手を伸ばせる。紗希は篤の手に、そっと触れた。
篤が驚いて、紗希を見下ろす。紗希は彼の目を見つめ返して、ゆっくりと首を横に振った。
(もうこれ以上、何も失ってはいけない)
篤の目が見開かれた。彼の両目から涙があふれ出すのを見て、紗希も思わず泣きだしてしまう。スマホの通話から困惑した声が聞こえるが、大声で泣き出した二人に次第に電話口からも涙交じりの声が漏れてきた。
様子を見守っていた支配人が慌ててハンカチを差し出しながら、「お二人とも、どうか落ち着いてください」と声をかける。
それから何分も、二人は互いに泣き続けたのだった。