── 13年前
13歳の蘇我紗希は、ストライプ柄のワンピースを風になびかせ、ホテルのスイートルームで一人物思いにふけっていた。
夕暮れを迎えようとする海辺は静かで、潮風はどこか物寂しさを運んでくる。暗く静かな雰囲気が、今の紗希には心地よかった。
沖縄のとある離島にあるこのホテルは、蘇我家が建設したものだ。
その一角が蘇我家の別荘として活用されている。気心知れた従業員が数多く働いており、紗希にとっては思い出の詰まったホテルでもある。
「紗希お嬢様、海を見に行きませんか?」
「ええ、今日は波も穏やかですよ」
「そうだ、釣りをしましょうか。お夕飯に釣ったお魚をお出ししましょう」
優しく声をかけてくれる彼らに顔向けできなくて、紗希はあてがわれた部屋に閉じこもっていた。
紗希が思い余らないようにという配慮なのか、ホテルの庭先にいるスタッフが先ほどからチラチラとこちらを見るのが分かる。
(心配しなくたって、海に飛び込むことなんてしないわ……)
考えてから、紗希は自分を恥じた。
従業員たちからの優しい声かけも、彼らが本心から心配しているのか、紗希が『蘇我不動産』の令嬢だからなのか。疑ってしまう心が嫌でたまらなかった。
一瞬だけ、蘇我家へ帰りたいと思う。しかしすぐに気持ちは消え失せた。
(もうあの家に、私の居場所はないのだわ……)
家には執事として代々仕えてくれる華崎家の者たちもいるが、紗希はのけ者だ。父親と突然現れた義母の明日香、そして義妹の明音は、以前から家族だったかのようにふるまっていた。
「……おかあさま」
途方に暮れて、紗希は小声で縋るように呟く。
あんなに明るくて元気だった母が、突如、この世を去った。
彼女は、自殺したのだ。原因という原因も見つからず、本当に突然の出来事だった。
(なのに! お父様ったら、いったい何を考えているの……!?)
紗希の父は四十九日も明けきらぬうち、突如として、明日香と名乗る女性とその娘だという明音なる小学生を連れ帰ってきた。
いくら紗希が蘇我家で箱入り娘として大切に育てられていたとしても、状況から分かってしまうことはある。
生まれた子供が小学生になるほど長い時間、父は不倫をしていたのだ。
どうしてお母さまが亡くなったのに、こんなマネができるの!?
恥知らず! 悪魔!
紗希は大声で泣きわめき、父親にこの離島にあるリゾートホテルへ連れてこられていた。あの時のことを思い出すと、胸のうちが重く苦くなっていく。
(……いいえ、ダメよ。私が顔を下げたら、私が悪いことをした人間みたいじゃない)
吹き抜ける潮風に立ち向かうように、紗希はパッと顔をあげる。
「あれは?」
窓から見える消波ブロックの上に、人影があった。
人影は夕闇の中、足場などあってないような消波ブロックをゆっくりと歩き、海へ最も近い出っ張りに立ち上がった。
何をしているんだろう。身を乗り出して見つめるうち、紗希は恐ろしい可能性に気が付いた。
── まさか、海に飛びこもうとしている?
心臓がドックン、と跳ねて走り出した。
消波ブロックの上に、人影がある。
紗希は、消波ブロックへ登るのがどれほど危険なことなのか、何度も聞かされていた。ブロックは打ち寄せる波の強さを弱めてくれるが、その隙間には複雑な海流が渦巻いている。
もしも足を滑らせて落ちたら、泳ぎに熟達した漁師でさえも上がってくることはかなわない。
だからこそ、身投げに使う人がいると聞いていた。
目を離せず、紗希はただ人影を見つめた。何かしなくちゃ、何か、なにか……!
気が付くと彼女は走り出していた。スイートルームを飛び出し、従業員向けのエレベーターに飛び乗る。一階のボタンを連打し、到着を待った。
早く、はやく、気が急いて震える足を叱咤して、ひたすら紗希は待ち続ける。
チン、とベル音を鳴らし、エレベーターが到着した。エントランスではなく、裏口へ一直線に駆け抜ける。
すると先ほど、窓から見ていた庭のスタッフに鉢合わせた。
「紗希お嬢様! どこへ……」
「ブロックの上に人がいるの! 飛び込むかもしれない!」
「ブロック? ……まさか消波ブロックですか!?」
返事をする間さえ惜しく、紗希はただ走った。庭の一角にある宿泊者向けの浜辺へのドアを開けて、ホテルのプライベートビーチを素足で走った。
消波ブロックの上に立つ人影は、先ほどよりも奥のブロックに飛び移っている。衣服はTシャツと短パンだけで、どう見ても安全な服装とは言えない。背丈からして、紗希より少し年上の男性らしかった。
どうしたらいいの。
必死に考えを巡らせた紗希は波打ち際に駆け寄り、両足を海に浸して、強くワンピースを両手で握りしめる。
「だめぇーッ……!!」
大きく叫ぶ。
人影が紗希を見た……気がした。すぐさま横をすり抜けて漁師やホテルのスタッフたちが走り出す。
「おいっ! 戻ってこい!」
「落ち着けー! ゆっくりなら戻れる」
声掛けに、何か諦めるようにがっくりとした動きで、人影が消波ブロックの上に座り込む。
程なくして、大人たちに連れられて、人影が紗希の近くまで来た。
紗希より年上の少年だ。黒髪はべっとりと皮脂で汚れ、ボロボロのトレーナーの肩にフケがパラパラ落ちている。顔はニキビだらけ。何とも言えない獣臭がする。
しかし。スニーカーだけは、人気スポーツブランドの新品だった。
きっと何か、訳がある。訳があって、彼は命を断とうとした。
その選択肢を阻む権利が自分にあったのかとか、いろいろ考える中で、紗希は思わず口に出す。
「貴方が、しななくて、よかった」
お母さんみたいに、苦しみの果て、一人ぼっちでひっそりと息を引き取らなくてよかった。
ただそれきりで呟いた言葉に、眼前の少年は目を大きく見開く。くしゃっ、とゆがんだ彼の顔に、大粒の涙が流れ落ちる。
彼は死んでしまいたかったのかもしれない。紗希の言葉に、悲しみを覚えたのかもしれない。
だが、紗希は、遺される側となる苦しみだけは分かる。分かってしまう。
何度もしゃくりあげる彼に、紗希は何も言わずにハンカチを差し出すしかなかった。