八月を迎え、夏本番となった日本列島は、連日の猛暑に襲われていた。
日本の夏は、もはや自分たちが知っている夏ではないのかもしれない。
そんなことを考えながら、クーラーがよく効いた駅構内から外に出た紗希は、即座に日傘をさす。
「暑い……」
呟きながら紗希が向かうのは、現在勤めている不動産関係の外資系企業『グリーン・リアリティ』のオフィスだ。
自然環境に配慮した開発をモットーに、国内外の不動産投資やグリーンインフラを取り入れたサステナブルな街づくりに取り組んでいる。
外資系らしいというべきか。
リモートワークやフレックスタイム制を導入し、社員が集中できるような環境を大いに取り入れている。
紗希がAllTubeで莉々果とコラボチャンネルを保有しているのも、会社の環境があってこそだ。家具や装飾品の配置を通じ、物件の魅力を引き出すホームステージングの魅力をアピールするという内容もあって、副業として認められている。
最寄駅から降りて5分後。
到着したビルの大きな窓には、珍しく日よけのオーニングがかけられていた。いつもはたっぷりの自然光が差し込んでくるが、今日ばかりは高温すぎて悪影響だと判断されたらしい。
「おはようございます」
「ああ、おはよう蘇我さん」
上司の牧本に挨拶をすると、即座に左右を見まわした彼が、紗希を手招きした。
「すまない。出勤してすぐで申し訳ないんだが、打ち合わせ室の一番に行ってくれないか?」
「っ、私のお客様でしょうか?」
「いいや。……その、俳優の
「……あの、私、耳がおかしく?」
ここ最近で聞いた覚えがあり、同時に、驚くべき名前に紗希は呆然とする。だが牧本はもう少し驚いているらしい。
「それが、うちのCMに出演するということで、広報と打ち合わせをしていたんだが……君が在籍しているかと尋ねるので、この時間に出勤してくると答えたら、待つとおっしゃってな……」
「……心当たりが全くありません」
「そうなのか? まいったな。さすが蘇我家だ、白川さんが挨拶に行くのかな、とか考えてしまって……」
紗希は首を横に振る。白川家と付き合いはあるが、こちらが挨拶に行く側だ。
「とにかく、会ってみようと思います」
「そうしてくれ……ここだけの話、みんな浮足立って仕事が手につかないみたいなんだよ」
頷いた紗希は即座に打ち合わせの部屋へと向かった。道中、女性社員からの視線が突き刺さる。金持ちの令嬢は流石だわ、とでも言いたげだ。
青木昇吾との婚約関係は、会社にも広く知れ渡っている。蘇我家という苗字も相当珍しいし、少し調べればこの時代、華崎真琴とのライバル関係について書き立てた記事にぶつかるだろう。
紗希なりに、いろいろと苦労しながら日々を過ごしているのだ。
(そんなことは今、どうでもよくて……)
なぜ、白川篤が自分を訪ねるようなことをするのか?
理由がさっぱり分からない。
打ち合わせの部屋に到着すると、即座にスーツ姿の女性が立ち上がる。表情から考えは読み取れないが、紗希のことを怪しむ様子はない。
「白川篤のマネージャーを務めております、関口と申します。彼のたっての希望なのですが、こちらとしても詳細が全く分からず……」
「私も何も分からないんです……とにかく、会ってみますね」
「はい。よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げる彼女に、紗希は頷き返し、室内へと向かう。シンプルなデザインだが、木材を取り入れて温かみのある空間に設えた打ち合わせ室の中央に、巨大なテーブルが設置されている。その向こう側に、まるで一服の絵画のような、均整の取れたスタイルの男性が立っていた。
紺色のTシャツに、黒い色のジーンズ。視界を守るような薄手のサングラス越しに見えるのは、くっきりとした二重の、僅かに垂れがちな淡い茶色の目だ。
昇吾も人に見られていることを常に意識し、ビジネスマンとして完璧な男性だと紗希は常々思っている。
だが、眼前の男性は、人に鑑賞されることを前提に作られた、彫刻のごとき美しさを秘めていた。
その美しさを、紗希は確かに、ドラマやCMで見たことがある。彼が日本どころか、世界でも有名な俳優だからだ。
特にCMについては、篤を起用しただけで売り上げが伸びるため、彼と契約したい企業はごまんとあるだろう。
そんな白川篤が、サングラスを外して直に紗希の目を見たとき。
紗希の頭の奥で、ひりついたように、何かが呼び起こされる。
「……よかった。やっと会えたね、紗希ちゃん」
篤の目が、蒼っぽく輝く。光の加減で鮮やかに変わるところを見るに、もとから色素が薄いのかもしれない。
(誰……? え、おかしい、だって、彼は白川篤さんで……でも、私、彼じゃない彼を、知っているような……)
無言で紗希が立ち尽くしていると、篤はなぜか嬉しそうに微笑んだ。
「そうだと思う。うん、むしろ嬉しいかな」
「え、あ……も、申し訳ありません。あの」
ひらりと足を進めた篤が、紗希の前に立つ。
彼は唇を開くと「いいんだよ」と優しく囁いた。落ち着いて深みのある低めの声は、紗希も聞き覚えがあるはずなのに、まったく知らない声のような気がしてくる。
「俺は君に気が付かれないくらい、素敵な男になるって、あの日に決めたんだからね」
紗希の脳内が、めまぐるしく動き出す。
海が見えた。美しい、海岸線。笑顔の青年と、母親を失ってすぐに感じた孤独感。
「もう、大丈夫。俺は、もう一度飛び立つよ……紗希ちゃん」
紗希の中で、記憶が眼前の篤に結び付く。
「……篤お兄さん?」
「そう。君がお母さんを亡くしてすぐ……あの南の島で一緒に過ごした、篤お兄さんだ」
にっこりとほほ笑んだ白川篤は、嬉しそうに目を細める。
紗希へ向かい、記憶が怒涛のように押し寄せた。どうして白川篤と篤お兄さんが結び付かなかったのか、紗希はようやく理解する。
あの日。母親を亡くして深く落ち込んだ紗希が、父親に突然連れてこられたのが、蘇我家の作ったリゾートホテルのある小さな島だ。目的は、今の義母である明日香を、後妻に迎える準備だったと分かったのは、成長してからのこと。
当時の紗希は、父親が自分さえも見捨ててしまったのだと、深く落ち込んでいた。
その島でぼんやりと歩いている時、防波堤で見つけたのが、白川篤だった。
今とは違い、大量のニキビができた顔に、何日も洗っていない長髪をべちゃつかせ、丸々と太っていたように思う。
だが、紗希にはすぐに分かった。彼もまた孤独に苦しみ、悩んでいるのだと……。
紗希は記憶を遡りはじめた。