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第12話 元悪女は、沈黙を選びたい(3)


 それから数時間後。

 茶会の席は、無事に終わった。紗希と昇吾は仲睦まじい婚約者として、ずいぶんと話題に上がったらしい。


 紗希の元には、莉々果からネットニュースのURLが即座に送られてきた。中を読めば、華崎真琴との関係はあくまで学生時代のものだとか、結婚相手として相応しい方を選んだだけだとか、あれこれ言われたい放題となっていた。

 会場でも二人に声をかける人が途切れることはなく、イベントを楽しむ間もないまま青木家の別荘に戻り、着替えをしなくてはならなかったほどだ。


 着物から着替えた紗希は、優しく穏やかなライラック色のシャツワンピースを着て、星がきらめきはじめた夜空を窓から見上げていた。


「……本当に良かったのかしら」


 思わず紗希は呟く。前世の通りに話が進めば、紗希はあっという間に婚約解消を成立させられていただろう。

 しかし。自分のことをよく知りたいと告げる昇吾も、自分を褒めてくれた静枝も、前世には無かった出来事だ。

 今は今でしかない。紗希が三年間、未来を変えようと続けた努力が、紗希が想像していないような形で現実のものとなろうとしているのではないか。


(そんなの、都合がよすぎる……)


 紗希は河原の寒さを思い出した。自身の命が失われる瞬間のことも、だ。

 昇吾との婚約を続けたいがあまり、死を迎えたような自分が、昇吾との未来を望んではいけない。未来を望めば望むほど、きっと紗希の命は終わりに近づく。

 それは、昇吾の幸福の邪魔になるに決まっている。

 思わず俯くと、暗がりに人影が見えた。ドキッ、として意識を集中させると、暗闇に浮かぶ顔が見えてくる。


「紗希さん」


 暗闇から手を振るのは、昇吾だった。紗希は思わず声をあげる。


「昇吾さん、どうなさったの?」

「中庭に来てくれないか。見せたいものがあるんだ」


 何だろう。紗希はスマートフォンを片手に部屋を出ると、昇吾がいるであろう中庭へサロンから出る。

 軽井沢の夜は思いがけず涼やかで、これならスマートフォンより羽織を選べばよかったと後悔した。

 ポロシャツにチノパンツを身に着けた昇吾が、くすくすと笑う。


「来てくれたね」

「呼んだのは昇吾さんでしょう?」

「そうだけど……こっちだ」


 手を伸ばした昇吾に、紗希はぴしりと身動きを止めた。頭の中であれこれ言い訳が思い浮かぶが、その伸ばされた手に自分の手を重ねるよう求められているのは明白だった。


「……分かりました」


 日中の疲れもあったかもしれない。どうにでもなれ、という思いを抱いて、紗希は昇吾の手へ自身の手を重ねた。

 手をつないだ紗希に満足そうに微笑みかけ、昇吾は真っすぐに歩き出す。

 中庭を通り抜けていくと、小さな階段があった。それをさらに降りていくと、小川に到着する。


「見て、ほら……」


 昇吾の指先が暗闇を示す。濃紺の闇の中に、小さなクリームソーダ色の光がきらめいた。

 ホタルだ。紗希は思わず見とれてしまう。


「この辺りは少しだけ周りと時期が遅いみたいでね。普通は六月中に見られなくなることが多いんだが……」


 昇吾が言う通り、光の数は、決して多くない。光の乱舞には程遠い、本当にわずかな輝きだ。

 しかし紗希には反対に、その輝きがいとおしく思えた。


「きれいですね。最後の最後まで、輝こうとしていて……」

「少し、気が晴れた?」


 昇吾が紗希に言う。

 まるで心を読まれているみたいだ。紗希は改めて思った。


「昇吾さんは、どうして何もかもわかってしまうのですか?」

「そんなことはないよ。俺は、華崎が礼司にした仕打ちを、何も知らなかった」

「それは……」


 真琴のせいだ、と口にしそうになり、紗希は沈黙を選んだ。


「俺は青木昇吾だ。青木家の長男として、会社のためにも、家のためにも、強くある必要があった。そんな中で、華崎は俺にとって救いだったし、幼馴染として大切だったのは本心だ」


 だったら。紗希と改めて関係を作り直す必要なんて、ないのではないか。

 昇吾へ言おうとしたとき。紗希は琥珀色の目に、じっと見つめられていることに気が付いた。


「信頼を得るのがどれほど難しいか、俺だってよくわかっている。華崎がいったい何を考えていたのか、礼司からどうして仕事の成果を奪い取ろうとしたのか……俺は彼女の真実を突き止めたい。同時に、君と改めて向き合いたいんだ」


 重ねられた手から熱が通う。紗希の頬に、手が添えられた。

 昇吾の顔が緩やかに近づいてくる。紗希に拒む力は、もう、残されていなかった。

 諦めきれなかった。たとえ死に近づく中でも、昇吾への愛が消えることはなかった。

 前世でも、今でも、昇吾以上に愛せる男性はいないと、紗希は言い切れる。


(……愛しているから)


 紗希は人差し指を持ち上げて、昇吾の薄い唇に指先を当てた。


「でしたら、この口づけは、お預けにしてくださいませ……」


 沈黙のうちに過ごせばよかったのだ。昇吾からの口づけを受け入れていれば、紗希は何事もなく、今夜を終えられたはずだった。


「……私も、昇吾さんに、心から向き合えるよう、改めて今を見つめなおしたいです。そして本当に納得がいったとき、それでも昇吾さんが私に口づけたいと思うなら……」


 紗希は小さく息を飲む。身持ちは硬い自覚があった。相応に格のある家柄で、血筋に厳しい親族が多い蘇我家の娘なのだから、当然なのだが。


「私の、初めてのキスを……昇吾さんに捧げます」


 重い女だと思われただろうか。紗希は考えたが、いまさらのような気もしていた。

 死に戻る前から、紗希はずっと、昇吾しか見ていない。


「分かった。その日まで、楽しみにしておく……」


 昇吾が微笑んだ。

 二人はそれから長いこと、ホタルを眺めて過ごすのだった。




第1章 完


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