次の日は、朝から紗希は着物の着付けにメイクに、大忙しとなった。
一般客も多く訪れるデモンストレーションの側面もあるため、小さな絵柄が染め付けられた絽の着物をまとい、八月に盛りを迎える向日葵をモチーフにした袋帯を身に着けている。いずれも紗希が選んだが、静枝が太鼓判を押してくれたおかげでほっとしていた。
問題ないとはわかっていながら、やはり戸惑う気持ちは抑えられない。
朝日の差し込むサロンで昇吾の到着を待っていると、自然と昨夜のことを思い出してしまう。
(ほ、本当にこれから、昇吾さんと会うのよね……?)
昨日。紗希は初めて、昇吾の本心を知った。
真琴との結婚を考えてはいないこと。そもそも彼女に、信頼がおけなくなってしまったこと。
何より。紗希との婚約をやめるつもりが、ないこと。
紗希の婚約解消の申し出は、自分らしく生きていきたいという意味合い以上に、華崎真琴から離れようという思惑が潜んでいる。
昇吾のそばにいれば、何かと真琴に接触する機会も生まれるだろう。
昇吾への気持ちが膨らみ続ける一方で、自分の運命がもしも死へつながっているのならば、断ち切りたいとも強く思う。
(私はこれから、どうしたらいいのかしら……)
おまけに、昨夜の昇吾は紗希へ、こうも告げてくれた。
── 人は変われる。君自身がそれを証明していると、俺は思う。
── 明日の茶会。君は、俺の婚約者として、堂々と振舞ってほしい。俺も君を婚約者として、全力で支えるから。
昇吾は今の紗希を認めたばかりでなく、婚約者として堂々と振舞ってほしいとまで伝えてきた。彼の言葉に偽りがあるかどうか、紗希には判断できない。しかし、嬉しかったのは事実で、どうしても昨夜はうまく眠れなかった。
「紗希さん。昇吾様がいらっしゃいましたよ」
執事の田中が声をかけてくる。紗希がハッとして顔をあげると、利休色の薄物に、乗馬袴を合わせ、シンプルながら凛とした佇まいの昇吾が立っていた。
普段はスーツ姿の彼しか見たことがない紗希からしても、なんとも新鮮に思える。
それは昇吾から見た紗希も、同じだったらしい。
「紗希さん。向日葵の帯か、可愛らしくてよく似合う」
可愛いらしくて、良く似合う?
思いがけない言葉に、紗希は動揺が隠せなかった。
「か、可愛いなんて……あ、ええと。その、昇吾さんも利休色がとてもお似合いです」
「ありがとう」
頷いた昇吾が声を落とし、こっそりと尋ねた。
「……ところで、母から俺は抹茶が苦手だと聞いていないかい?」
「は、はい。伺っています」
どきん、としながら紗希が見つめ返すと、昇吾はさらに声を潜めて囁いた。
「気にしなくていい。それは、祖母の茶道の特訓に付き合わされるのが嫌でついた嘘だからな」
「まあ……」
目を見開いた紗希に、昇吾が小さく頭をかく。
「祖母はとても厳格な人で、母以上に茶道の礼儀に厳しかったんだ。祖母の時代は一層に、多くの著名人を招く茶会が商売上大切だったろうから、彼女なりに俺を思ってのことだとは思うが……」
「……分かりました。では、気にせずにおりますね」
「ああ、頼む」
ホッとした様子で昇吾が頷いたところで、静枝が現れた。茶会の主として相応しい、青木家の家紋が入った色無地の一つ紋で、彼女の名前にぴったりな浅黄色だ。
彼女は『公私混同をしない青木家本家の妻』という評判から想像もできないほど満足そうな、満面の笑みを浮かべている。
「二人とも素敵ね。さあ、向かいましょうか」
玄関先に用意された車は二台ある。一台は静枝のため、もう一台は紗希と昇吾のための車だ。
すぐさま昇吾がドアに向かい、紗希のために開けてくれる。
「まあ、昇吾。母さんのためには開けてくれないのね?」
楽し気に言う静枝に、紗希も驚かされっぱなしだった。これほど明るい人だったのかと、驚きが隠せない。
こっそりと、執事の田中が紗希へ耳打ちした。
「蘇我様。奥様は身内と認めた方には非常に甘いお人なのです」
紗希が頷くと、昇吾が苦笑する。彼の手を借りて車に乗った後、昇吾が昔を懐かしむように話し始めた。
「紗希さん。母さんは品行方正だとか言われているけど、実際はとても明るい人だよ。俺と礼司についても分け隔てなく育てたつもりでいて、礼司が抱えているコンプレックスをすごく気にしていたんだ」
話を聞きながら、紗希は改めて、前世の自分の視野の狭さを思い知らされたようで、身をつい縮めそうになる。思い込みで突っ走り、どれほどの人に迷惑をかけてしまったのか。
(そうよね……静枝様とは、ほとんどかかわりがなかった。何も知らなくて当然かもしれないけれど、本当は婚約者として知っているべきだったのよ……)
紗希が反省していると、温かいものが手に触れた。昇吾の手だ。紗希の右手を、昇吾が握りしめていた。
どきっ、として紗希は目の前にある助手席のヘッドレストを見つめてしまう。
「礼司のコンプレックスは、俺が思うに、『自分は青木家の人間ではない』という思い込みだ」
「え……?」
「母さんは、俺も礼司を息子として愛していたけれど、礼司はそう思えなかった……まあ、無理もないな。礼司はずっと、自分は養子だという自覚があったから」
ちらり、と昇吾は紗希の方を見た。
「紗希さんも同じだ。これから、自分が『青木家の一員になる』と思って、少しずつ知っていけばいい。相応しい振る舞いは、きっと後からついてくる。俺自身も、君をもっと知りたいんだ」
そうだろうか。まだ、実感もなければ、本心から昇吾の言葉を信じ切れていない紗希には想像がつかない。
しかし、少なくとも昇吾が昨夜言った通り、彼は紗希のことを知りたいと真剣に望んでくれている。それだけは、はっきりと伝わってきたのだった。