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第11話 婚約者として、自分として


 心の声が聞こえるのは、便利な力だと昇吾は思っていた。

 真琴への不信が募る中、紗希の声が聞こえるのは、便利なことだと考えていた。

 礼司との関わり。紗希が知る未来の情報。それらを活用することで青木家にとって有能な後継者だと知らしめ、今まで通りに働くのだと考え続けていた。


 だが。

 礼司が紗希への特別な思いを抱き始めたとき、心の中がざわついてしまった。

 思わずイベントに誘い、一週間もの間、ともに過ごす約束をしたのは、後から考えてみれば礼司へのけん制もあっただろう。


 その動揺にたたみかけるかのように起きたのが、新幹線から降りる際、紗希に生じた異変だ。


 昇吾が思うに、単なる立ち眩みではない。


 宮本家に伝わる『絡繰からくり』の力により、紗希は心と体を誘導され、転ぶよう仕向けられたとしか思えなかった。

 均にも聞かされたが、宮本家のトップである宮本総一郎には、大勢の隠し子がいるという。

 たとえば。イベント会社の社員や駅にいた乗客に『絡繰り』を使う隠し子を忍ばせたとしたら、不可能ではないだろう。


 だが紗希を狙う理由が不透明だ。とにかく彼女の安全を第一に考えるべきだと思い、咄嗟に母を頼った。茶会のため、別荘へ来ているのは事前に知っていたからだ。

 そして思いもよらず、紗希と母が打ち解けるのを、紗希の心を通じて理解してしまった。


 電話で出した内扉の話は、言い訳に過ぎない。紗希と少しでいいから話をしたかった。

 紗希に真琴のことを信用できなくなっていると打ち明けたのは、自分の変化を気付いてほしかったからだ。

彼女は、昇吾が大切だ、愛しているといいながら、今の自分を見ていないように思えてならなかった。

 紗希には、自分が真琴を愛し、紗希を害するのをなんとも思わないような人間のままなのだと、誤解していてほしくなかった。


 すると。紗希は突然電話を切ったかと思うと、昇吾の部屋にやってきた。大切な話だったのは事実だ。しかし、いくら何でも、無防備が過ぎるのではないかと、彼は自分の振る舞いを棚に上げて考える。


 ショートパンツから均整の取れた足をさらけ出し、華奢な肩をいからせて立ち尽くす紗希は、迷子の子供のように不安そうだった。


 見たこともないほど肌理の整った肌と、細い鎖骨から立ち上る香り。黒く美しい瞳は、昇吾の心をとらえて離さない。


(彼女は『前世』の俺のことばかりを考えている……それがいったいいつの出来事かは知らないが、過去は過去だ。今の俺を、見てほしい……)


 そんな思いから訴えかければ、紗希の内心は荒れ狂う海のように変貌していく。

 血に染まり、最後まで自分を想いながら死んでいく姿を読み取ったとき、昇吾は思わず紗希を抱きしめていた。


「……しょー、ご、さん?」


 呟く声は、ぽわん、と丸い形をしている。覗き込んだ眼は黒く、本来の彼女の輝きを宿していた。


「紗希さん。お願いだ。少しだけでいい。俺にチャンスをもらえないか?」

「ちゃん、す?」

「婚約解消を保留にしてほしいと頼んだが、それも取り消しだ。頼む、このまま続けさせてほしい」


 紗希が呆然と立ち尽くすのが分かる。メイクも何もしていない彼女の顔は、あどけなさすら感じさせた。


「昇吾さん、ど、どういうつもりですか?」

「言葉通りの意味だ。君の婚約者でいたい」

「ですから、どうして?」

「君をもっと知りたい。お願いだ」


 本心から昇吾は紗希へ願い出た。自分と同じように、紗希にも心の声が分かる『心読しんどく』が使えたらいいのにと、昇吾は思った。

 本当に自分は紗希を知りたいと思っているのだと、どうやったら伝えられるのだろう。

 考えていると、紗希の心の声が、嫌でも聞こえてくる。


(……そんな。なんでこうなってしまうの? どうして私は、いつも失敗してしまうの?)


 紗希が保つ沈黙を踏みにじってしまった気がして、昇吾はうつむきそうになる。

 前世と紗希が呼ぶ出来事を、彼女自身が否定したらどうなる?

 確証の持てないことに、普段の昇吾なら動き出せなかっただろう。

 しかし今は、違っていた。


「失敗なんてしていない……君と婚約者としてあり続けたいのが、今の俺の本心だ。君のことをもっと知りたい。そう思ったからこそ、君を茶会に誘ったんだ」


 二人きりで話す機会ができるし、周囲からは婚約者として見られ続けるだろう。真琴がいないのを見て、昇吾と真琴の関係性について変化が起きたと、周囲からも察してもらえるかもしれない。

 衝動的に動いたにしては我ながら良い案だと、昇吾は自画自賛した。


「人は変われる。君自身がそれを証明していると、俺は思う。、お願いだ。今の自分自身を、否定しないでくれ」


 自然と言葉が紡がれる。紗希の黒い瞳から、緩やかに、大粒の涙が零れ落ちた。


(ああ、やっぱり私は、昇吾さんを諦められないんだわ……たとえ、この日々が、自分の死へつながっていたとしても……)


 紗希の気持ちは、昇吾の中へ痛いほどに伝わってきた。彼女が本気で自分を愛し、そして今もなお、自分を思って行動しようとしている事実が、身につまされる。


(前世の俺は何をしていたんだ? 確かに真琴は大切な幼馴染だ、だが……こんな風に自分を思ってくれる人間を、どうして……)


 若いころの昇吾は、人間は損得勘定で動くと思っていた。青木家という名前だけで声をかけてくる人間も、無理やり体の関係を結ぼうとする人間もいると、よく知っていたからだ。

 だが一方で、情を理由に動く人間がいることも、社会に出て以来、身に染みて理解するようになった。

 情で動く人間は、金では首を縦に振らないこともよくある。そういう人間にどう対処するかも、昇吾の腕の見せ所であったのだ。


(前世の俺があえて無視した? そこまで俺は真琴に惚れ込んでいたのか? ……)


 はたり、と、昇吾は恐ろしい可能性に思い当たった。

仮に、均のように『絡繰からくり』を使う宮本家の血筋を引く人間が、自らの思惑のために、紗希と昇吾の関係を悪化させるように仕向けていたとしたらどうだろうか。

昇吾と真琴が深い関係を持つように仕向け、紗希への悪感情を煽っていたとしたら……。


(いや、そんな馬鹿な……)


 可能性に過ぎない、と割り切りながらも、昇吾は思考を止められなかった。

 青木家と蘇我家の婚約は、確かに今となっては経営の面では旨味が薄いかもしれない。だが、青木家の親戚や分家筋では、昇吾と真琴が恋仲だと噂されるようになってなお、紗希との婚約を熱く支持する声が絶えなかった。


 血筋こそが価値の証明であり、会社や従業員を生かす糧となる。

 昇吾と紗希が結婚することで、今まで以上に青木家の血筋を高貴なものとできるからこそ、親戚や分家は支持をやめなかったのだろう。

 しかし誰かに旨味があるということは、他の誰かには不都合な可能性もある。


 昇吾は腕の中の紗希を、そっと覗き込んだ。視線を合わせると、彼女の濡れた唇が見える。


「明日の茶会。君は、俺の婚約者として、堂々と振舞ってほしい。俺も君を婚約者として、全力で支えるから」

「……分かり、ました」


 紗希がやっと頷いた。彼女の心の中が穏やかになるにつれて、はっきりとした言葉が聞こえてくる。


(……もしかして、昇吾さんなりに何か考えがあってのことなのかしら? そうかもしれないわ。例えば、明日の茶会で私と仲睦まじい様子を見せておいて、ある程度円満な婚約解消を目指すとか)


 違う、と言えたらどれほどいいだろう。

 しかしとりあえず、今は紗希が何か納得していてくれるならそれでよいと、昇吾は思っていた。

 最初に彼女から信頼を損ねたのは、昇吾自身なのだ。たとえ前世だろうが、来世だろうが、自分自身の失敗は自分で挽回しなくては、昇吾は気が済まなかった。


「それじゃあ、紗希さん。おやすみなさい」

「お、お、やすみなさい……昇吾さん」


 急ぎ足で、紗希が部屋に戻っていく。

 昇吾はそれを見送ると、即座に室内に置いたスマートフォンを取り上げた。


「……均か? 悪いが、茶会にかかわるイベント従業員に『宮本』の一族がいないか、チェックしてもらえないか」


 電話の向こうで、何か観念したように承諾する親友の声を聴きながら、昇吾は自分の考えた『可能性』が真実であるかもしれないと思うのだった。




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