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第10話 元悪女と、茶会の前夜(4)


 真琴のことを、昇吾が信用できなくなっている?

 何かの間違いではないか、と思いたくなる彼の言葉に、紗希は呆然とスマートフォンを見つめた。


『言葉通りの意味だ。……たとえば、莉々果さんは、紗希さんにとって大切な存在で、信頼できる相手だろう?』

「もちろんです」


 即答する紗希に、昇吾はうなずいた。


『彼女と、もし、結婚するということになったら、受け入れられるか? 何かとても大切な事情があって、相談を持ち掛けられたら……』

「そう、ですね。莉々果なら、生半可な気持ちではそのような話は持ち込まないと思いますし」

『華崎は俺にとって、紗希さんにとっての莉々果さんのような存在だった。もしも彼女と深い仲になったとしたら、青木家の事情や周囲との関係も踏まえたうえで、結婚を選んでいたと思う。だが、君への振る舞いを思うと信じてもらえないかもしれないが……今の俺には、華崎は、信頼できる相手じゃないんだ』


 どうして?

 紗希は強く思った。礼司の告白を踏まえても、昇吾と真琴の間にある何年もの絆は、たった少しのすれ違いで崩れてしまうほど、脆いものだったのだろうか。

 紗希は思わず電話を切る。そして、部屋を出ると、真っすぐに廊下の奥へ突き進んだ。

 静枝が教えてくれた方角にある一室は、ほかの部屋と比べてもドアの作りが豪奢だ。主客を泊めるにふさわしい内装となっているのだろう。


 深呼吸して、紗希は軽くドアをノックする。


 何もかもに、黙っておきたかった。沈黙の中にいればよいとおもっていた。

 ただただ、未来を変え、昇吾と離れることを選び続けようと思っていた。


(でも。黙っていられない……)


 少なくとも周囲は、真琴と昇吾が将来を見据えたパートナーのようにとらえている。

 それほどの関係を作り上げておきながら、どうして信じられないなんて言い出せたのだろう。


(今日の静枝様の様子と言い、嘘とは思いたくないけれど、何か考えがあるんじゃないかしら……)


 頭の中で、あることないことが膨らんでしまう。

 紗希にとって、昇吾が真琴を愛しているのは前世から変わらない事実の一つ。

 それが覆るなど、どうしても納得がいかない。昇吾に言葉の真偽を直接確かめずにはいられなかった。


「紗希さん……急に電話を切るから何かと思えば……」


 ドアを開けた昇吾が、目を丸くして紗希を見つめる。バスローブから立ち上る熱気からして、シャワーを浴びて幾ばくも無いうちに電話をくれたのは真実だったのだろう。


「ごめんなさい。どうしても直接、顔を見て話した方がよいと感じて……」

「……そうだな。俺も、軽率だった」

「いいえ。昇吾さんが真琴さんを信じられないと言い出したこと、私にはそれが、信じ難いんです……なぜなのですか?」


 昇吾はひどく難しい物事を考えるような顔をして、紗希に言う。


「それは……その、だな……」

「何か事情があるならおっしゃってください。私は今も、昇吾さんとの、婚約は、解消すべきと考えていますから……」


 それでいいはず。紗希は幾度となく自分の未来のために決めたことだと、繰り返す。


(どれほど私が昇吾さんを愛していたとしても、華崎真琴と昇吾さんが『前世』と同じように、惹かれあっているのが現実のはずで……)


 舌打ちの音がした。紗希の右手首が熱いものに掴まれ、引きずるように前へ連れ込まれる。

 気が付いた時には背中に壁の質感があった。昇吾に部屋の中へ連れ込まれ、出入り口付近の壁に押し付けられたのだと分かったときには、もう紗希に逃げ場はなかった。


「君は、いったい、何時の『俺』を見ているんだ? ……」


 ウッディな香りが、紗希の顔を包む。小さく悲鳴をあげそうになりながら、紗希はただ前を見るしかない。

 昇吾は琥珀色の目に怒りの感情を乗せながら、紗希に続けて言う。

 彼のたくましい両腕に囲われて、身動きが取れない。ただただ、昇吾の言葉を受け止める。


「今の俺は、ここだ。今、まさに、君を壁に押し付けた。君が『愛している』のは、本当に俺なのか? 前世とやらの誰かであって、俺ではないんじゃないのか? ……」


 何を言われたのか、紗希にはすぐには理解できなかった。


(前世って……昇吾さんは、私の秘密を知っているの……?)


 昇吾は小さく唇をゆがめる。紗希は思わず逃げ出したくなった。

だが、右手首は昇吾の左手の中にすっぽりと納まり、動かせそうにない。


「あの、昇吾さん。離してくださいっ……!」

「人には誰だって秘密がある。君にも、俺にもだ」


 ドキン ──。

 紗希の心臓が痛いほどに強く脈打った。


(まさか……秘密って。死に戻ったことが……?)


 どうやったらバレるのか、紗希には見当もつかない。

 たとえば、そう。紗希の心の声を、昇吾が読めるようなことでもない限り……。


「君が三年前に急に変わった理由は、今でもわからない。だがそこには、きっと秘密があるのだろう?」

「それは……」


 少しほっとしながらも、紗希は昇吾の追求から逃れようと顔を俯かせて、ハッとする。


(やだ……! そうだったわ、寝ようと思って、もうパジャマに着替えてたんじゃない……!)


 身に着けているのは就寝用のブラトップに、Tシャツと足を大きく露出させた短パンだ。

 パジャマとはいえ、普段の紗希の姿からしたら、かけ離れたものだろう。メイクだってしていない。

 自分の姿があまりにも普段着だったことに気が付き、紗希は恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。


「あ、あの……」

「君は一体、誰を愛しているんだ?」

「しょっ、昇吾さ、んには、関係がありません!」

「いいや。関係はある。君は俺の婚約者だ。今は、まだ」


 泣き出しそうな気持ちになる自分に、紗希は混乱していた。

昇吾の行動を咎める言葉をかけたいのに、全身が喜びと恐怖という、相反する感情で満たされて頭の中がおかしくなりそうだ。


(どうして? 私は彼が怖いの? ううん、違う……私が本当に怖いのは……)


 紗希の脳裏に、はっきりと、死に向かう自分自身の姿が思い出された。

 河原に座り込み、泣きじゃくりながら、空腹と苦痛に耐えている。命が刻一刻と終わりに近づくのが、右腕から流れ出す血液の量からもわかった。

 そうして冷たくなる体、遅すぎた後悔の末に見た、昇吾と真琴の幸せそうな様子。


(ああ、そうよ……それだけだったんだわ……)


 紗希は死に戻って以来、自分がどれほど努力しようとも、周囲の誰も幸せにできない未来が来ることに怯えていた。

 昇吾と真琴から離れたいのも、すべては自分のためであり、それこそが周囲の幸せにつながると信じていたからだ。

 しかし。未来は大きく変化を始めた。変化すればするほど、周りが幸せになるのだと信じていた。なのに、今は周囲のためになる変化が起きているのか、判断が付かない。


(だって。昇吾さんに触れられるなんて、幸せになれるのは、私だけじゃない……)


 ふいに、体が温かいものに包まれる。気が付かないうちにあふれ出してきた涙の向こうに、昇吾の髪が揺れるのが見えた。


「……しょー、ご、さん?」


 昇吾の両腕が、紗希を強く抱きしめていた。



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