昇吾と礼司は、血のつながりが存在しない。
彼は青木家が支援する孤児のための施設に、初めて入ってきた子供の一人だった。その子供たちの中でも抜群に頭がよく、コミュニケーション能力も十分にある、それは素晴らしい才能の持ち主として評価されていた。
そんな彼に目を付けたのが、昇吾の実父である青木家の現当主・
『父さんの言動もあって、礼司のことは皆、俺のスペアだと昔から思っていた。礼司自身もそうだ。俺だって、彼と同じ立場にあれば、そう考えるだろう……』
しかし。昇吾自身は、義理とはいえ弟となった礼司との間に、大きなわだかまりを持ちたくはなかった。青木家という巨大な家の中で、唯一、情を理由に動いてもよい相手を得たとさえ考えていた。
青木のような巨大な家は、常に駒として振舞うことを家族に強いてしまう。
なぜなら、血筋こそが価値の証明であり、会社や従業員を生かす糧となるからだ。
しかし昇吾は、礼司に対しては、そんな血筋の束縛を乗り越えて、本当に家族として協力し合える関係になれると思えた。
もちろん、昇吾の描く夢物語にすぎず、価値を持つ側ならではの考えだったと思い知らされるのは、すぐだった。礼司からは畏怖と憎悪、コンプレックスの入り混じった眼差しを向けられ、昇吾は自分の考えがいかに思い上がったものだったかを悟ったのだ。
おまけに礼司は華崎真琴への恋心を抱いてしまった。
『……真琴、いや、華崎が俺にとって大事な存在なのは事実だ。幼馴染として、彼女には長らく世話になってきた。学生時代はダンスパーティーのパートナーを務めてもらったこともある』
昇吾と礼司は真琴を中心に、恋敵となった。周囲もそう見ていただろう。
しかし紗希との婚約が持ち上がり、昇吾と真琴の関係は悲劇的な物語として取り沙汰されるようになる。後は紗希も知っての通りだ。
昇吾は真琴を大切に思っているのだと周囲に隠すことはなく、紗希に対しては敵意を向けてきた。
その敵意を受けながらも、真琴の謎を解き明かそうとし、結果として破滅したのが前世の紗希だ。
『そんな形だったから、礼司とは今まで、碌に話せなかった。だが、紗希さんのおかげでお互いに腹を割って話す機会まで得られたんだ。本当に、ありがとう』
深く頭を下げた昇吾に、紗希は言う。
「……昇吾さん。礼司さんの件は、とてもよく分かりました。ただ、繰り返しお伝えしておきたいのですが、私の気持ちは五月に婚約解消を願い出たときと変わりません。真琴さんのことを愛しておられるのなら、その通りに」
昇吾は首を横に振る。否定、の意味を込めた仕草だった。
『そもそもの、問題として、だ。俺は華崎のことを大切に思ってきた、今も会社で支えてもらっていると自覚がある。だが……そもそも、俺は華崎との結婚を、本気で考えることができない。今の俺は、彼女を信用できないんだ』
思いもよらない言葉に、紗希はスマートフォンを取り落としそうになった。
「どういう、意味でしょう……?」
足元がぐらぐらと揺れて、何もかもが崩れ落ちていくような感覚に紗希は襲われた。
真琴のことを、昇吾が信用できなくなっている?
何かの間違いではないか、と思いたくなる彼の言葉に、紗希は呆然とスマートフォンを見つめた。
『言葉通りの意味だ。……たとえば、莉々果さんは、紗希さんにとって大切な存在で、信頼できる相手だろう?』
「もちろんです」
即答する紗希に、昇吾はうなずいた。
『彼女と、もし、結婚するということになったら、受け入れられるか? 何かとても大切な事情があって、相談を持ち掛けられたら……』
「そう、ですね。莉々果なら、生半可な気持ちではそのような話は持ち込まないと思いますし」
『華崎は俺にとって、紗希さんにとっての莉々果さんのような存在だった。もしも彼女と深い仲になったとしたら、青木家の事情や周囲との関係も踏まえたうえで、結婚を選んでいたと思う。だが、君への振る舞いを思うと信じてもらえないかもしれないが……今の俺には、華崎は、信頼できる相手じゃないんだ』
どうして?
紗希は強く思った。礼司の告白を踏まえても、昇吾と真琴の間にある何年もの絆は、たった少しのすれ違いで崩れてしまうほど、脆いものだったのだろうか。
紗希は思わず電話を切る。そして、部屋を出ると、真っすぐに廊下の奥へ突き進んだ。
静枝が教えてくれた方角にある一室は、ほかの部屋と比べてもドアの作りが豪奢だ。主客を泊めるにふさわしい内装となっているのだろう。
深呼吸して、紗希は軽くドアをノックする。
何もかもに、黙っておきたかった。沈黙の中にいればよいとおもっていた。
ただただ、未来を変え、昇吾と離れることを選び続けようと思っていた。
(でも。黙っていられない……)
少なくとも周囲は、真琴と昇吾が将来を見据えたパートナーのようにとらえている。
それほどの関係を作り上げておきながら、どうして信じられないなんて言い出せたのだろう。
(今日の静枝様の様子と言い、嘘とは思いたくないけれど、何か考えがあるんじゃないかしら……)
頭の中で、あることないことが膨らんでしまう。
紗希にとって、昇吾が真琴を愛しているのは前世から変わらない事実の一つ。
それが覆るなど、どうしても納得がいかない。昇吾に言葉の真偽を直接確かめずにはいられなかった。