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第10話 元悪女と、茶会の前夜(1)


 数時間後、別荘の二階にあるゲストルームに紗希は案内されていた。

 ゲストルームは広々とした洋間で、湯船付きのシャワールームに簡易キッチンまでそろっている。

ただし。クローゼットでもトイレでもない、正体不明のドアがあった。


(これ、何のドアかしら……)


 不思議に思いながら、紗希はドアを見つめる。

様子を見た静枝が、ああ、と声をかけた。


「それはね、隣室とつながるドアなのよ。以前は家族同士の付き合いがあるお客様が来ることも多かったから、お部屋を大きく使えるように増設したそうよ」

「ああ! なるほど……」

「内鍵はかからないけど、隣の部屋には誰も泊まらないから、安心して頂戴ね」


 少しだけホッとして、紗希は肩の力を抜いた。


(考えてみたら、昇吾さんと同じ屋根の下で泊まることなんて、あったかしら? ……うう、思い出したら緊張してきたわ……)


 その時。静枝の視線を感じて、紗希は振り返る。

 静枝は遠くに浮かぶ雲を見つめるような眼差しで、紗希の向こう側に誰かを見ているように思えた。


「あの、静枝様?」

「……紗希さん。あなたのお母さま、琴美さんについて、どのくらい覚えていらっしゃるの?」


 ずきん、と紗希の胸の奥が痛くなる。

 蘇我琴美そがことみ。紗希が中学生のころ、突如として病気により他界した実母の名前だ。

 紗希は目を細めながら、呟くように言った。


「……具体的な表現が見つからないのですが。お茶の作法について、蘇我家の茶室でよく指導を受けたこと。母が病院で過ごす中で見舞いに通った日々は、よく覚えております」

「琴美さんは、私の弟子だったの」

「存じております」

「……じゃあ、私がお免状をいただいて、茶道教室を開こうと決心してから、初めての弟子だったのは知っている?」


 初耳だった。紗希は思わず静枝の顔を見る。

 年齢を重ねてなお若々しい静枝の横顔に、今ばかりは、深い影が落ちていた。


「知らなかったみたいね。だから……琴美さんは、私にとって、とても思い入れのある人、と言えばよいのかしら。琴美さんが通っているのなら、と言ってきてくださった方が何人もいたのよ。とても明るくて、まるで太陽のような子だった」


 きっとそうだろう。紗希はそう思った。

 母の琴美は、紗希に厳しくも優しかった。周囲の人間から草花の一本に至るまで、そこにあることをとても大切にし、慈しむような美しい女性だった。

 思い返せば思い返すほど、紗希は前世の自分が真琴や昇吾にした振る舞いに、強い落胆を覚えるのだ。

 思わずため息をつきそうになった時。


「実を言えばね。貴女を昇吾さんの婚約者にという話が進んだのは、青木家と蘇我家の事業関係ばかりでないのよ。琴美さんがとても良い人で、その人の子供ならば、という期待があったの」


 紗希は目を見開いて、静枝の方を見つめる。昇吾とよく似た、静枝の持つ琥珀色の瞳がこちらを見つめ返していた。

 さぞかし期待外れだっただろう。

 思わず視線をそらしたくなる紗希の心を心得ているかのように、静枝は首を横に振った。


「紗希さんが後悔なさっているようだから、あえて伝えさせていただくわ。昇吾の婚約者に推した自分を悪く思った日々もあったの。だから、真琴さんにした振る舞いをすっぱりとやめた三年前、何が起きたかと……」


 真実を言えるわけもなく、紗希はうつむく。

 紗希は前世で一度死んで、なぜか死ぬ五年前に戻ってきた。そして死の運命を回避し、悪役となる未来を回避するために、昇吾へ婚約解消を申し込もうと決めた。

 そのために、将来は自分一人で生きていく覚悟だって決めている。今まで通りでよいはずがないと、勉学にも人付き合いにも打ち込んだのが、この三年間だ。

 すべては自分のためだ。


 思わず俯く紗希に、静枝は言う。


「昇吾さんにも、もちろん貴女にも黙っていたのだけど……個人的にこっそりと探偵をやって、三年前に貴女に何があったか調べさせもしたのよ」

「ええっ!?」


 全く気が付かなかった紗希は、大きな声をあげた。静枝は深々と紗希に頭を下げてから、話を続ける。


「本当にごめんなさい。結局、調べても、何もわからなかった。だから納得したの。貴女が言う通り、本心から、自分の今までを反省して『こうありたい』と思える姿を見つけたんだって」


 思いがけない言葉に、紗希は思わず目元に涙が込みあがるのを感じた。

 自分の三年間は、決して無駄ではなかったのだと、実感できたせいかもしれない。


「将来のことを、昇吾さんと話し合っているのよね? 今の貴女なら。昇吾さんと話し合ったうえで、お互いに良い選択肢を選べるでしょう。その決定を全面的に支持したいと思っています」


 そんなことを言ってもらえるなんて。

 紗希は驚きに声が震えないよう、精いっぱい注意して答えた。


「あ、ありがとうございます……」

「それじゃあ、私はこれで失礼するわ。そうそう。昇吾だけど、同じお二階の奥の部屋にいるわよ。あの子、きっと何も言わなかったでしょうから……」


 紗希の心は急転直下で、喜びから動揺に切り替わる。顔が一気に赤くなるのを感じると同時、静枝が思わずという様子で口元に手を当てて、笑いをこらえるような素振りをした。


「あらあら……紗希さんったら、そういうところは琴美さんにそっくりね」


 死の間際、同じように生きたいと願ったほどの亡き母に似ていると言われたにもかかわらず、今の紗希には全く耳に入らなかった。

 口から、言葉にならない悲鳴が飛び出してしまいそうになる。


(そうよね!? 昇吾さんも、同じ家の中にいるのだから、お休みになられる部屋があるに決まっているわよね……!)


 どれほど別荘が広かったとしても、数百メートル離れているとは思えない。

 つまり。紗希が歩いてたどり着く範囲で、昇吾が寝たり、衣服を着替えたりしているというわけで。


(女子高生じゃないんだから、こんなことであれこれ思うなと言われても、無理なものは無理よ……!)


 内心で散々に喚き散らす紗希に「おやすみなさい、紗希さん」と、静枝が楽しそうに言う。紗希はかろうじて声を絞り出した。


「は、い……お、おやすみなさい、静枝様」


 部屋を立ち去る静枝の後ろに、滑るように田中が付き従う。その姿を呆然と見送ってからドアを閉めた紗希は、思わずベッドに座り込む。


(本当に、何が起きてるの?……)


 改めて考えても、紗希は自分がこうして青木家の別荘にいて、おまけに静枝からお褒めの言葉を賜ったのが信じられない気持ちでいっぱいだった。



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