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第9話 元悪女と、婚約者(4)


「紗希様。駅でご気分がすぐれなかったと伺いましたが……」

「まあ、ありがとうございます。立ち眩みを起こしたようです。もうすっかり元気ですから、ご心配には及びません」


田中の言葉に返事をした後、紗希は自らの足で立つ。不思議なことに、あの時の体の動かしにくさはすっかり消え去っていた。


「静枝様。この度はお招きいただきまして、誠にありがとうございます」


静枝はわずかに口元へ微笑みを浮かべ、紗希へ声をかけた。


「こちらこそ。昇吾さんが駅から連絡をかけてきて、急に貴女を招くと言いだしたものだから、私もびっくりしたの。てっきり『風のささやき』に宿泊して、真琴さんと一緒に来るものだとばっかり……」


 彼女は昇吾のほうへ、ちらりと視線を放つ。昇吾がどのような表情をしているのか、紗希は確かめるのが恐ろしく思えた。


「申し訳ない。華崎は新卒の採用に忙しく、何より、今回のイベントは紗希さんのほうが適任と考えたんです。宿泊の予定変更は申し訳ないですが、ホテルに泊まることに少し安全面で気になることがありまして……」

「安全? そう。にしても……華崎、ねぇ」


 紗希は内心でどきりとした。静枝も『安全』という言葉を疑っているように感じたからだ。

だがその疑問が晴れるより早く、静枝はすっと視線を戻すと、邸内へと進み始めた。すぐに田中が追い付き、無言で続き始める。


「いこう。紗希さん」


紗希は昇吾に促されるまま、その後に続く。

青木家の別荘は、外観は数寄屋造りの風格ある邸宅だ。しかし中に入ると、どこか洋風の雰囲気が漂っていた。奥へ向かうと、広々としたリビングに続いて、大きな窓がいくつも並ぶ明るいサロンが見える。

サロンには石造りの小さな手洗い場が設けられており、滾々と清水が湧き出すのが見えた。遊び心あるデザインに、紗希は思わず見入ってしまう。

さらに並べられた家具はいずれも木製で、様式からして作られた年代も様々なことがわかった。しかし、その異なる様式が自然と調和しあっている。

紗希は思わずため息をつく。青木家の歴史と歴代の住人が持つ文化的な教養の高さ、どちらも感じさせられたからだ。


「素敵なサロンですね、静枝様」

「ありがとう。ここは昇吾さんの祖父の代に増築されたそうなの」

「なるほど。だから玄関の白熱灯と違って、こちらの照明は蛍光灯を使用したものなのですね」


 天井を興味深そうに見つめる紗希に、静枝が小さく微笑んだ。


「実はあなたと莉々果さんのチャンネルを見たのだけど、本当に家具類に興味がおありなのね」

「恐縮です。まだまだ、蘇我不動産に蓄積されたノウハウのいくらも学びきれていないのですが……」

「あら。良い心がけね。でも、明日以降のイベントでは、こちらが皆様から注目を集めることになるわよ」


 そう言うと、静枝はサロンの奥に向かう。サロンの奥には躙り口と呼ばれる茶室へ入るための小さな出入り口があり、その奥には畳が敷かれた静かな四畳半ほどの空間が広がっていた。

畳の真ん中には炉が切られ、茶釜が置かれている。ふつふつと湯が煮えたぎり、その音が静けさを増しているように思えた。

 窓は細い木材を縦横にはめ込んだ連子窓。その向こうに、軽井沢の自然と調和した露地と呼ばれる静かな庭園がある。


「お茶室……しかも水屋まで。本格的ですね」

「お義母様が作られたのよ。今は形を変えてお祭りの形になっているけれど、そもそも、今回のイベントの茶会は、当時の社交界では新参者だった青木家が、方々と顔をつなぐために始めたものなの」

「はい、存じております」


 静枝は少し不思議そうに紗希を見つめた。


「……噂には聞いていたけど、本当に紗希さん、見違えたように大人びたわね」

「母さん」


 たしなめるように昇吾が言うと、静枝は小さく紗希に頭を下げた。紗希としては、言い返す言葉もない。実際その通りなのだ。


「3年ほど前の私は、何も知らない子供よりもひどい状態でしたから」

「今は違うのかしら?」

「今は、婚約者であったとしても、お互いにとって幸せな選択肢が選べるよう、時間をかけて話し合うべきと考えております」


 静枝は少しだけ笑みを深めると、茶室へ紗希を促した。


「当日に向けて、所作をみておきたいの。お願いできるかしら?」

「もちろんです」


 即座に紗希はうなずく。昇吾は2人の様子をただ遠巻きに見つめるだけだ。


 昇吾と真琴への嫉妬に狂っていた期間にも、紗希は茶道に関しては蘇我家の令嬢に恥じないよう修練を重ねてきた。亡き母、琴美が、茶道に関しては師範としての腕前を持っていたためだ。

 静かな空間に入ると、先ほどよりもずっと気持ちが落ち着くのがわかる。


(緑茶が好きになったのも、茶道で茶の味を楽しみ、人を喜ばせる極意を学んだのもあったからかもしれない……)


 静枝にもそんな気持ちが伝わるといい。そう思いながら、心を込めて茶筅を動かし、紗希は一服を点て終えた。

 静かに静枝は茶碗を手に取り、味わう。


「……完璧に近いわね。何も直すところがないわ」


 しみじみと彼女がつぶやいたとき、紗希は自身の頬が赤くなるのを感じた。認められたことに興奮したのだ。


「これなら明日以降も大丈夫ね。あなただけなら」

「ええと……?」


 意図がわからず、紗希は首をかしげる。


「昇吾はどうもお抹茶が苦手らしいの。うまくフォローしてあげて」


 ひっそりと囁くように言った静枝に、紗希は目を見張るしかなかった。




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