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第9話 元悪女と、婚約者(2)


 紗希は物思いにふけっていた。ふと、顔に当たる光の加減が変わりだしたことに気が付く。

新幹線が滑るように駅を抜け、軽井沢へ向けて走り出していた。


「……改めて確認しておく。今回のイベントでは、俺は会場の視察のほか、茶会への参加も主な目的だ。君には茶会の方にも顔を出してもらう予定だが、問題ないか?」


 昇吾の声掛けに、紗希は即座に頷いた。イベントでは、青木家が主催する茶会も行われる。高名な茶人を呼び、野点と呼ばれる野外で茶を点てて楽しむ催しだ。

 どこか鋭利な眼差しでこちらを見る昇吾に、紗希は感づいた。

 普段から紗希はワンピースやドレスなど、洋装ばかりを選んでいる。ここ最近は、ビジネス向けのスーツで昇吾と会う機会もあった。

 昇吾は着物での振る舞いや、茶席での作法が気がかりなのかもしれない。


「お……いえ、静枝様が主催される会ですもの。ぜひとも参加させてくださいませ」


 お義母様と呼び掛けて、紗希は言葉を飲み込む。


(あ、危ない。過去のことを考えていたから、当時の癖が出たのかしら……当時はお義母様と呼んで憚らなかったから……)


 青木静枝。昇吾の実母であり、今回の茶会では来客をもてなす側となる人物だ。茶道の師範としても活躍しており、まさに大和撫子という風貌の凛とした美女である。

自他ともに厳しく、公私混同をしないことでも有名だ。

昇吾の婚約者である紗希に対してもそれは同じこと。常に礼儀正しく、紗希は彼女が口を開けて笑うような姿を一度も見たことがない。


そんな彼女は、紗希が突如イベントに参加することになって、どう感じたのだろうか。紗希は頭の中で考えを巡らせる。だが前世から思い返しても、紗希に対し、静枝が直接的に何か行動を起こしたことはなかった。

今回の茶会に参加することにしたって、答えがわからない、というのが正直なところだ。


前世では、昇吾は真琴を伴ってこのイベントに参加した。紗希はその事実を強くねたみ、彼へ問い詰めさえしたのだ。


「どういうつもり!? 婚約者の私を差し置いて、なぜ華崎さんと軽井沢に行ったの!」

「あの茶会は青木家の妻となった者が代々行うんだ。彼女が見ておいて損はない」


 本気で言い放つ昇吾の姿を見て、かつての紗希は金切り声に近い叫びをあげた。どうしても信じられなかった。確かに紗希は決して昇吾にとって好ましい女性ではなかったかもしれない。そうだとしても、婚約者としては振る舞いに間違いがないようにしてきたというのに。


(華崎さんは茶会でも何か特別な方法を使ったに決まっているわ……どんなことかは、わ、分からないけど……)


 紗希の予想に反し、華崎真琴への世間の評価は高まる一方だった。実際にあれこれ人をやって調べさせたが、真琴の振る舞いには何ら問題はなかった。茶席で多少の失敗はあったようだが、それも『執事の家の娘だから』とお目こぼしされたらしい。

紗希はそんな周囲にも深く絶望したのだ。


(ダメよ。今はそんなことを考えているべきじゃない……)


過去を思い返すのをやめ、紗希は昇吾へ目を向ける。


「どうかお気になさらず。」

「……茶会の件が大丈夫なら、この1週間は問題なく過ぎるも同然だ」


昇吾はそう話したきり、口を閉ざした。紗希もそれきり口を閉ざす。

車内にはクラシック音楽が流れている。窓から見える景色がみるみる内に後ろへと流れ去る。


「この前は、すまなかった」

「……え?」


 突然の謝罪に紗希は一瞬戸惑った。だがすぐに、その謝罪が何を指しているのかを理解する。

 昇吾が突然、莉々果と紗希の事務所を訪ねてきた日のことを指しているのだろう。あの日は事前の電話こそあったが、もともと予定自体がなかった。ビル内で騒ぎになったのも、ひょっとすれば気にかけているのかもしれない。

 そこまで考えてから、紗希は返事をする。


「それこそ。お気になさらないでください」

「……そうか」


紗希の返答に、昇吾はどこか、納得していないような表情を浮かべた。


「礼司のことは、本当に感謝している」

「いえ。彼が自分で考えて行動したことですから」


紗希はそっと目を伏せる。その後は会話もなく、新幹線が駅に到着するまで黙り込んだままだった。

 午後1時ころ。新幹線は軽井沢駅へ到着した。駅の構内には人も多く、ボストンバックやキャリーケースを手に、避暑地へと足を進めている。

 紗希はこれからの予定を頭の中で整理しながら、席から立った。

 ふと、近くの席にいた女性社員と紗希の視線が重なった。彼女は少し驚いた様子で、申し訳なさそうに会釈をしてきた。紗希も反射的に、会釈を返す。

瞬間。

くらり、とした眩暈のようなものが、紗希を襲った。


(ずっと座っていたせい? ……)


奇妙な浮遊感が紗希を包む。足を前に出すのが、急激に難しくなる。

それでも紗希は違和感を隠しつつ、前へ進む。新幹線の出入り口にやっと到着した時には、冷や汗がびっしょりだった。


(なに、これ……貧血? ……)


 何が起きたのか紗希が理解するより早く、足がもつれる。手を伸ばして扉付近の手すりへつかまろうとすると、背後から声が聞こえた。


「そのまま、転べ」


紗希は息をのんだ。


(誰……!?)


 誰の声か判別はつかない。女性であることはかろうじて分かったが、紗希が知る声ではない。何より車両には、青木産業のイベント関連会社の社員しかいないはず。

 一瞬、紗希の脳裏に、会釈をした女性社員が浮かんだ。


(そんなわけ……)


振り返る間もなく、紗希の眼前に駅のホームが迫っていた。


(だめ、間に合わない……!)


 紗希は全身を、ぎゅっと固くし、衝撃に備えるほかなかった。



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