梅雨明けを待ち、紗希は一大決心をしていた。
「昇吾さん、今日から一週間、どうぞよろしくお願いいたしますね」
「こちらこそ」
紗希は軽井沢へ向かうべく新幹線に乗っていた。真向いの座席には、昇吾がいる。備え付けのテーブルをはさんでいるが、少しでも足を伸ばせば昇吾の足に触れてしまうだろう。
事務所で礼司や均、莉々果も交えて会話をしたあの日から一週間。
イベントの詳細や予定を蘇我家経由で受け取った紗希は、悩んだ。
そして悩んだ末に、参加を決めたのだ。
ここ数日は、本当に悩みに悩んだ。莉々果とも、何度も相談した。
「やっぱりさ、一度、紗希は本気で昇吾さんと向かい合うべきな気がしてきた」
事務所のソファで、グラスに差し込んだストローをくるくると回しながら、莉々果が言う。
紗希は眉を顰めながら言った。
「いつだって私は本気よ? 本気じゃなかったら、何かの間違いで、その……真琴さんに迷惑になるかもしれないし」
「てか、普通、逆でしょ? 婚約解消を紗希が願っているから、今みたいな状況になっているけどさ。紗希は婚約者だし、昇吾さんは解消を保留しているし、真琴さんの方がおかしいんじゃない?」
悩み始めてから三日目、ついに莉々果はそんなことを言いだした。
「まさか、うちの事務所にメールで『イベントの件について』なんて送ってくる奴とは思わんかったもの」
「それは本当か分からないでしょう?」
「でもさぁ、だってメールアドレスに『マコト』をローマ字にした文字列いれてんだよ? 思わせぶり過ぎない?」
忌々しそうに莉々果が言う。
それは今日のお昼に来たメールだ。迷惑メールとは違う、という莉々果のセンサーが働いて、開いた結果が脅迫めいた内容だったのだ。
それは、紗希が軽井沢での茶会に昇吾の婚約者として参加すれば、彼女の過去の所業のおかげで青木家に不幸が訪れるというメール。添付されたURLは、品のないゴシップを扱うサイトで紗希は蘇我家の立場を悪用し『高慢でふしだらな人間』と言いふらされている。
もちろん、紗希にそのような事実は無根。
蘇我家が頼りにする会社に依頼して、見つけ次第、情報を削除させている。
しかしただ単に情報を見ただけの人間には分からない。むしろ、真実の愛を引き裂く悪女としての紗希を面白がる人間の方が多いだろう。
情報の拡散が進まないのは、ここ最近の昇吾の振る舞いのおかげだ。彼が宝石展示会をはじめ、紗希を隣に置いてくれる機会がぐんと増えているために、噂は噂に過ぎないと言われているのである。
「莉々果ったら……」
「だって、あたし、びっくりしちゃったよ。昇吾さん、てっきり紗希に超・攻撃的なのかと思ったら、甘いんだもの」
「あ、甘い?」
紗希は声を上ずらせる。思ってもみなかった。あれは、莉々果的には甘いと表現するのだろうか。
「甘いって、雰囲気が甘いの。なんだかわかんないけど、本気で真琴って人が、昇吾さんの最愛なの?」
「……だって」
「……配信の世界ってさ、何が当たるか分からないの。たくさんの仕掛人がいて成り立つコンテンツもあれば、ある日突然、たった一人のSNSでの投稿がきっかけで、大盛り上がりするコンテンツもあるの」
莉々果は真面目な顔をして言う。紗希も、彼女が言わんとするところは分かった。
やってみなければ、何事も分からないのだ。
「だからさ。試しに、今回のそのお茶のイベントは行ってみたらどうかな?」
「……行って、どうしたらいいのかしら」
「試すのよ」
「だから何を?」
紗希の耳元に、莉々果が唇を近づける。
「本当に、昇吾さんが、あなたを嫌っているかどうか、よ」
莉々果の言葉を想い起しながら、紗希は向かいの席に座る昇吾に視線を送った。
彼によく似合う豪奢な作りの座席は、言われなければ新幹線だと分からないかもしれない。
ここは通常の席ではなく、限定十席だけで予約必須のラグジュアリーな先頭車両だ。上質な空間のみならず、サービスもいわば飛行機のファーストクラス並みの内容。
今日は満席となっているが、昇吾曰く、青木産業のイベント関連会社の社員のみが乗っているらしい。
現に、紗希と昇吾が乗る頃には、他の席はすべて埋まっており、二人が乗ると同時に全員が立ち上がってお辞儀をしてきた。紗希は内心で驚いたが、青木家の次代を担う昇吾とその婚約者への対応としては、間違っていないのかもしれないとも感じる。
「資料を拝見して驚きました。日本国内でも、こんなにたくさんの紅茶が販売されているんですね」
「ああ。紅茶は苦手なのか?」
「いいえ。実家にいたときは紅茶ばかりでした。でも、いざ飲んでみると緑茶の香りや味が好みには思いますね……」
「ふうん。俺も家のせいか、普段から飲むのは紅茶の方が多いかもしれないな」
向かい合わせの席に腰かけながら、紗希は他愛もない会話を振ってくる昇吾に内心で首を傾げた。
(お誘いいただいた時にも驚いたけど、このイベントには真琴さんはいらっしゃらないのかしら……)
昇吾が笑みを浮かべながら言う。
「真琴は今、新卒採用の用意に忙しいからな。こういうイベントごとに顔を出す余裕はないだろう」
「あ、ああ。そうですよね……」
(言われてみればそのとおりね。てっきり、何かしらの理由をつけて一緒にいらっしゃるものだとばかり……)
礼司のこと。宝石展示会のこと。世間で人気になる商品やブランドのこと。
紗希が覚えている、これから起きるはずの出来事がちゃんと起きているのに、昇吾とのことばっかりおかしくなっていくのが分かる。
このままでは、紗希は自分の胸の中にあふれる気持ちを抑えられる気がしなかった。
今日だって、昇吾と真正面で向かい合っているだけで、身体が熱くなる。
自分はまだ彼を愛しているのだと、思い知らされる。
(……確かめてみないと、分からない、か)
その通りだ。まだ紗希は昇吾のことを好きなままだ。
このまま接触をつづければ、いつしか前世と同じように真琴を攻撃し、紗希は破滅への道を歩みだしてしまうかもしれない。
そんな未来を回避するには、昇吾の気持ちをよく把握し、計画を立て直すしかない。
(婚約を解消してもらえるよう、努力するのみね……)
深く考え込む紗希は、自分を見つめる昇吾が苛立つように眉を顰めたのに気が付かなかったのだった。