コール音が三度響く前に、昇吾は電話に出てくれた。
そのタイミングで紗希は部屋の外に出て、人気のない廊下の隅で話を続ける。
「もしもし、昇吾さん?」
『よかった。礼司が会いに行くという話は聞いていたんだ。それで紗希さんに少し用事があったんだが、繋がらなかったから、つい礼司に確認してしまった』
「申し訳ありません。スマートフォンをマナーモードにしたままで、気が付かず……」
『いや、謝らないでくれ。俺の方こそ、その、気が急いてしまった』
電話越しに聞く昇吾の声に、胸の高鳴りが激しくなるばかりだ。主に、恐怖の意味合いで。
(いったいどうしたのかしら……。何か約束を私が忘れていた? それとも……)
昇吾が電話をかけてくる理由が、やはり見つからない。前世ではまずありえなかったことだ。
『今は、礼司と一緒なのか?』
「あ、いいえ。礼司さんと莉々果と一緒にいますわ。三人でわたくしの事務所で話をしておりまして……」
『すごいな。俺も混ざることは、可能だろうか?』
「えっ、昇吾さんが? ですが、今はどちらに? 移動するにしても、わたくしの事務所に来るまでお時間がかかるのでは……」
すると。階下がにわかに騒がしくなる。紗希がどうしたのかと顔をあげると、このビルで受付スタッフをしている初美という女性が、大慌てで紗希に駆け寄ってきた。
「ね、ねえ。紗希さん、青木昇吾さんが来るなら来るって教えてよ! 今、他の会社の子に見つかっちゃって、ちょっと騒ぎなのよ!」
紗希の頭の中が真っ白になる。
昇吾さんが来ている? なんで?
「うそ、何も聞かされてない系?」
立ち尽くす紗希の様子からそう察したのか、初美が焦ったように言った。
「っ、うちの事務所に連れていきます。報道陣とか、変な人いませんよね?」
「いないと思うけど、うちのビルって配信者結構多いのよ! すぐ話広まっちゃうから、本当に気を付けてね!」
「ありがとう!」
紗希はすぐさま階段を駆け下り、息を切らして一階のロビーに出た。
そこらのモデルも叶わないほどの美貌を持つ男二人が、ロビーを物珍し気に見ている。青木昇吾と、宮本均だ。
(どうして二人そろってここにいるのよ……)
築二十年ほどの古めのビルなど、彼らには珍しい場所かもしれない。
遠目から彼らの顔を見て、かっこいいー、などと呟く女性がビルの外にさえいる。あまりにも目立つ二人に、紗希はすぐさま話しかけた。
「お二人とも、ひとまずわたくしの事務所へどうぞ。莉々果も待っていますから」
紗希ではなく、トップ配信者である莉々果に会いに来たのだと、紗希はアピールするように言う。周囲から紗希に向けられる視線が、自然と「なあんだ」とでも言うように和らぐのが分かった。
話のネタとして詰まらなくなったからだろう。世界中に視聴者を抱えるトップ配信者の莉々果なら、あれほどの美青年たちが会いに来てもおかしくない、と思えるからだ。
ホッとしながら紗希は二人を事務所に案内した。
「本当にごめんなさい、昇吾さん。わたくし、昇吾さんに伝えてあるのは、プライベート用のスマートフォンの番号だけなの。ビジネス用のものは別にしていて……」
(どうしよう。ビルのオーナーさんに一言入れた方が良いかしら……?)
あれこれ考えながら紗希は階段を先導して上がる。ワンピースの後ろ側を抑えながら振り返ると、昇吾がすまなそうな表情を浮かべていた。
「いや。俺自身もそうなのに、うっかりしていた」
まさか昇吾さんに謝られるなんて。
紗希は驚きで声がしどろもどろになるのを抑えるだけで、精一杯だった。
「宮本さんもごめんなさい。お手を煩わせてしまって……」
「いや。実は昇吾が急に言い出したんだ。支援してるスタートアップ企業の内容が蘇我さんの助けになるかもって……」
ちらりと昇吾の方を見る均の眼は、なんとも言えない笑みを浮かべていた。
事務所のドアを紗希が開ける。中では礼司が椅子の上に乗り、莉々果を手伝ってミラーボールを外す最中だった。
「えっ、兄さん!?」
「礼司……何をしているんだ?」
呆れた顔をする昇吾に、礼司が慌てて椅子から降りる。
「ありがと、礼司。青木昇吾さん、宮本均さん。ようこそ、莉々果と蘇我紗希の事務所においで下さいました」
莉々果はミラーボールを受け取りながら言う。礼司が驚いた表情で莉々果を見ていた。当然だろう。自分はミラーボールの下で、彼女に出迎えられたのだから。
「こちらこそ。日本どころか、世界規模でも指折りの配信者である莉々果さんに会えて光栄だ」
「いえいえ。あっ、と、紗希ちゃん。私、これから収録したい動画できちゃった。じゃあね!」
そそくさと立ち去る莉々果に、紗希は内心でため息をつく。
(そんな予定なかったじゃない……もう……)
振り返った紗希は腹をくくった。しかたがない。昇吾と均、そして礼司という三人の男たちを前に笑みを浮かべる。
「と、いうわけですので……ええと、どうしましょうか?」
「そうだな。俺としては、どうして礼司がここにきたのかが知りたい」
えっ、と紗希は心の中で呟いた。
(どうしよう。真琴さんの意見を通さないように腹を決める意思決定を応援してもらえたって、正直に言うわけにはいかないわよね……)
昇吾から見れば、紗希の行動は真琴を貶める罠のように見えるかもしれない。かといって、ここで否定すれば礼司が反発してくるのは目に見えた。
すると。
「兄さん。俺の話を聞いてもらえるか?」
礼司がはっきりとした声で告げる。昇吾が頷きながら、当然のように礼司の前に置かれたソファへ腰かけた。均がそれに続いたので、紗希は迷った挙句、礼司の横に座る。
(これじゃ私と礼司さんが尋問されてるみたいね……)
心の中で呟くと、昇吾が何故か大きく咳払いをした。
「尋問するつもりじゃないが、お前がここまで紗希さんと仲良くなるとは、思わなくてな」
紗希はとびきり濃いコーヒーを一気飲みしたような感覚に、思わず背筋をゾワゾワとさせる。
また、昇吾に心の中でしか言っていない言葉を使われてしまった。
「兄さんにも、俺は謝らなくちゃいけない。俺は華崎さんに今まで、遡れば学生時代から、彼女へ出された課題や宿題を、下心でこなしていた過去がある」
「……そういえば」
「覚えがある? ならよかったよ。一度だけ兄さんに華崎さんの宿題を俺が代わりにやっているところを、見られてしまったんだ」
「……ああ、そういえば、そんなこともあったな」
礼司は微笑みを浮かべた。諦めているようにも見えた。
「原因は、華崎さんへの恋心によるものだ。そして同時に、兄さんへの敵対心からだった……証拠があるかと言われるとないんだけど、会社に入ってからも華崎さんのデータ収集や人事部でのこまごまとした仕事を手伝ってしまっていた」
「部署が違うだろう? それなのに? どうなってるんだ?」
混乱した様子で言う昇吾に、均が何か言いたげにした。しかし結局は口を閉ざす。
礼司の方は落ち着いたものだった。
「でも、少しずつ考えが変わっていったよ。俺は華崎さんに、俺自身を本気で信頼してほしいと思っている、でも彼女は信頼してなどくれないって、分かったんだ。紗希さん、いや、紗希に背中を後押ししてもらわなかったら、自分の考えが間違っているわけじゃないと気が付かなかったら……今だって俺は、兄さんや部下たち、なにより自分自身を裏切っていたよ」
言い終えて、礼司が、ふう、とため息をつく。しかし彼の表情は満ち足りたものになっていた。
反対に昇吾の眉間の皺が深くなる。そして昇吾は小さく、唸るように言った。
「いつから、紗希さんを呼び捨てに?」
「……ついさっきだよ。お礼を言いたくて来たら、肩ひじ張らずにいこうって」
昇吾はなぜ、自分が真っ先に紗希の呼び方を問いただしたのか、分かっていなかった。
衝動的だった。紗希、と礼司が呼び捨てにした瞬間に、頭の奥がカッと白く燃え上がるような感覚があった。