梅雨入りを果たした都内は、雨に濡れていた。
莉々果の事務所があるビル前に立つ紗希は、目当ての人物を見つけて手を振った。
「礼司さん、こっちです」
「紗希さん!」
パッと笑みを浮かべて、礼司が紗希に駆け寄った。今日は休日、礼司は前回のイベント会場とは違いTシャツやチノパンと、ラフな服装をまとっている。
対する紗希はオフィスカジュアル系のネイビーをベースにしたワンピースだ。
礼司の方から『自分の気持ちを後押ししてくれたお礼がしたい』と言われたのは一昨日のこと。そこで紗希は、莉々果と使う事務所に彼を招こうと考えたのだった。
白いショッパーバッグを差し出した礼司が言う。
「事務所に招いていただけるなんて、嬉しいです。これ、あんもか堂っていうお店のプリンなんですけど……」
「嬉しい! わたくし、ここのプリン好きなのよ」
以前、莉々果が企業案件として請け負ったときから、二人そろってはまってしまった店のプリンだ。礼司が照れたように笑う。
「莉々果さんが昨日、食べたいって投稿してたのを見て、もしかしたら紗希さんなら渡すチャンスがあるかもしれないって思いまして……」
「なるほどね。なら、直接渡してあげてちょうだい」
「ああ、直接……えっ、直接!?」
目を見開く礼司に、紗希は面白そうに笑った。
ビルの二階にある事務所へ彼を案内する道中も、礼司はいまだに信じがたいのか「直接……」とぶつぶつ呟いている。
事務所のドアを開けてすぐ、爆音のディスコミュージックが二人を出迎えた。
「いらっしゃーい! 礼司ちゃーん!!」
おそらく莉々果なりに色々考えた結果なのだろう。何故か回転するミラーボールの下で、シンプルな黒いワンピース姿の莉々果がピースサインを繰り出していた。
「ひょわ……」
「莉々果! 流石に驚かせすぎよ!」
あれこれ騒がしくしながら、三人が事務所のソファに座る。
「じゃあ改めまして。はじめまして、莉々果です」
「えっ、あ、青木礼司、です。こんにちは……」
紗希はすぐさま緑茶を淹れ、プリン用のお皿とスプーンを用意して戻ってきた。莉々果が待ち遠しそうにプリンに手を付ける。
「嬉しいー! あたしプリン食べてるから、しばらく黙るね!」
「はいはい」
二人の様子に苦笑しながら、礼司が改まった様子で紗希に向き直る。
「紗希さん、本当にありがとうございました。あなたのおかげで、俺は信頼する部下たちのチームを守り切り、そして俺自身の気持ちを守ることもできた。感謝しています」
「わたくしは大したことはしていないわ。本当にすごいのは、自分で選択して行動した礼司さんよ」
心の底からそう思いながら、紗希は礼司へ優しく話しかけた。
「いえ。本当にありがとうございました。それに、もう一つあるんです」
「もう一つ?」
「あの日、紗希さんをタクシーまで送ったでしょう? 一応、兄にそのことを連絡したんです。そうしたら『送ってくれて助かった』と、礼を言われまして……ありがとうございました」
どうして自分がお礼を言われるのか分からず、紗希は首をかしげる。
「ええと、どういうこと?」
「兄に礼を言われるなんて、俺が覚えている限り十年ぶりくらいなので……」
「……そうなの?」
「はい!」
子供のような無邪気さで満面の笑みを浮かべた礼司に、紗希は思わずクスクス笑いをこぼしてしまう。馬鹿にしているのではなく、微笑ましいものをみた思いからこぼれた笑みだった。
「……俺、紗希さんのことをずっと勘違いしていたように思います」
「えっ。なになに? 紗希は真正直すぎてデリカシーの無い……」
「莉々果! そんなこと一言も言ってないでしょう?」
「はぁい」
突然口をはさんできた莉々果が、プリンを食べるのに専念する。
礼司は目を丸くしていたが、ややあって「クッ」と小さく笑った
「あはは……真正直、というのはその通りかもしれません。思ったことをとても、素直に口に出す人だと思っていましたから」
「もう……。ところで、ずっと思っていたのだけど、礼司さんはどうしてわたくしに敬語を使うの?」
「ええっ?」
「確かに義姉になるかもしれないけれど……せっかくなら、ビジネス関連の友達として、気軽に接してもらえるとありがたいわ。どうかしら?」
礼司が少し考えるような表情を見せる。彼は口の中で何かつぶやいていたが、やがて、
「なら……紗希。よろしく!」
と、笑みを浮かべた。紗希も笑みを返し、大きく頷く。
「よろしくね、礼司」
「じゃああたしにもため口でいいからね?」
「莉々果さんは別です! 推しなので!」
「ええー……」
にぎやかに話す三人の間に、電話の着信を知らせるベルが鳴り響く。礼司がハッとした様子で手元のスマートウォッチを確認し、すぐさま立ち上がった。
「ちょっと、出てくる……兄さんからだ……」
「えっ、昇吾さんから?」
紗希も驚きを隠せない。急ぎ足で部屋を出ていった礼司だが、ほんの三十秒ほどで再び部屋に戻ってきた。
彼は何度か左右に首を傾げながら、紗希に言う。
「あの。紗希、兄さんと何か約束を?」
「えっ。いいえ、何もないはずだけど……」
「それが。紗希さんに連絡を取ってるけど、全然でないって」
「……あっ!」
紗希はソファから勢いよく立ち上がると、壁際に置いた鞄に手を入れた。
「ごめんなさい。プライベート用のスマートフォンをマナーモードにしたままだったわ!」
「……あぁ。兄のところにある紗希の連絡先はプライベート用の方なのか」
「そうなのよ。どうしよう……」
「じゃあ、今からかけなおすって俺が伝えるよ」
それはそれで、想定外だった。
紗希が戸惑って立ち尽くしていると、莉々果が二個目のプリンに手を伸ばす。
「早く電話しないと、プリン食べちゃうわよ」
「兄さん、なんだか焦ってた感じだし、外で電話してるっぽかったよ。一応連絡入れてやってよ」
二人に言われては紗希も頷くほかない。
(……どうしよう。昇吾さんに電話をかけることになるなんて)
事務的な連絡ならまだしも、プライベートで電話をかけた経験は数えるほどしかない。
紗希は意を決し、礼司が昇吾から受け取った電話を切るのに合わせて、昇吾へ電話をかけたのだった。