室内にノック音が響いた。
コンコン、コン。
三度目のノック音をわずかに遅らせるのは、幼いころからの華崎真琴の癖だ。青木昇吾はよく心得ている。
まるで『これから私が中に入るわよ』と告げるような音だと、いつも思っていた。
昇吾は学生時代から、このノック音を聞くたびに嬉しくてならなかった、はずだった。
先ほど感じた小さな引っ掛かりが、大きくなるのを感じている。
不思議そうに均も振り返る。彼も、ノックをした相手が真琴だと知っていた。
だが今は業務時間だ。何の断りもなしに突然来るなんて。
「昇吾、どういうこと?」
黒い髪をなびかせながら、彼女は鋭い眼差しで昇吾に尋ねた。
「……今は業務時間だと思うが、どうしたんだ」
「どうしたもこうしたもないわ。どうして、礼司君のチームが新しいテレビCMのプロジェクトに携わったままなの?」
眉を顰める彼女には、強い決意が見て取れる。
「礼司君のここ最近の成績は、はっきり言って芳しくないわ。このまま彼を……」
「その件については、礼司から人事部に追加のプロジェクトメンバーが不要であることが、はっきりと申し渡されている。真琴の意見ももっともかもしれないが、本当に礼司の成績は、芳しいものではないと、真琴は思っているのか?」
「ええ、もちろん。そうでなきゃ、私がチームの入れ替えを申し出ないわけがないでしょう?」
そうだな、と昇吾は呟いた。しかし彼の眼には、ビジネスの場で見せる鋭い光が宿っている。均は彼から放たれる感情が、真琴に対していつも放たれていたものとは違うことを感じ取っていた。
(どうしたんだよ、昇吾……)
均は今までの真琴と昇吾の関係を思うにつけ、驚くほかなかった。
真琴は昇吾にとって、海外の学校で開かれる卒業パーティーなど、折々でダンスパートナーを務めてもらうほどに親しい女性だ。紗希との婚約が決まった後も、いまだに真琴こそが昇吾の最愛の人なのだと信じている人間は少なくない。
そんな彼はビジネスの場であっても、真琴の意見に対して真っ向から否定的になることは少なかった。
だが今、昇吾は彼女に対し、強い疑念を抱いていることがはっきりと伝わってくる。
「なるほど。真琴の意見は分かった。だが、今回のプロジェクトは礼司の作り上げたチームがもっとも適任だと確信している。成果をあげてきた人材ばかりだ。お前が挙げた人材も引けはとらないが……奇妙な点がある」
「何かしら」
「……どうして、お前が推薦する吉岡という女性は、蘇我紗希の友人であったことを、異様なほどに社内で話しているんだ?」
えっ、と真琴が息を呑んだ。昇吾は小さく首をかしげる。
「礼二から、お前の推薦する人物についての評価を聞いた。実績や経験は申し分ないが、まるで『俺』の婚約者との関係があるからこそ、このチームに入れたと言いふらすような人間はどうかと思う、と」
真琴は打ちのめされた様に立ち尽くす。
彼女は何か昇吾に声をかけようと何度か口を開いたが、昇吾は真琴に弁明の機会を与えなかった。
「真琴。俺には分かる。お前は今、ショックを受けている……ふりをしているだけだ」
「どうして……そんなこというのよ……」
目に涙を浮かべた真琴が、昇吾の右腕に縋りつく。
「まってよ、昇吾さん……どうしてそんな、そんなひどいことを……」
囁く声はあまりにも甘く、並の男なら彼女の涙をぬぐうために何だってしただろう。
しかし昇吾は、真琴の幼馴染。彼女のことを、あまりにも知りすぎていた。
「真琴。お前の良くない癖だ。嘘をつくとき、お前はいつだって、相手の目を見ない」
ハッとして真琴が顔をあげた。
しかし、もう遅かった。
室内を満たしていた空気が、パチンッ ── と破裂したように切り替わる。空調も程よく効いた部屋だったはずなのに、今は何故か妙に肌寒く感じられた。
それまで室内を満たしていた『香り』や『気配』のようなものが、消え去ったかのようだった。
立ち上がった昇吾は真琴の横をすり抜けていく。
ドアを見れば、均のほかに着いている秘書の一人が、控えめに顔をのぞかせていた。
「近藤株式会社の社長がお見えです」
「分かっている。均、真琴の話を聞いてやってくれ」
「……分かった」
そのまま昇吾は足早に部屋を出ていった。室内に真琴と均、二人きりが残される。
しばらくして真琴は姿勢を立てなおすと、均を見た。その眼には、幼馴染の均への感情とは言い切れない、憎悪のようなものが見て取れる。
やがて真琴は深々と均に頭を下げた。
「……出過ぎた真似をいたしました」
「俺から昇吾にもとりなしておく。気を病むなよ」
「はい……申し訳ありません……」
しおらしい態度で部屋を出た真琴は、そのまままっすぐに自身の執務室に戻った。人事部の部下たちは真琴の様子にびくりと肩を震わせる。
対外的には、優しく穏やかな青木昇吾の愛する人で通っている彼女だが、仕事の面では違う。一切手を抜かず、徹底的に自分の意思を貫き、もしもうまくいかなければ昇吾や均にすぐさま話を持ち込んで、強硬な姿勢を見せることもままあると、人事部の中ではよく知られている。
真琴は執務室のソファに腰かけ、小さく呟いた。
「私は大丈夫、私は大丈夫……私はきっと『宮本真琴』になってみせる……」
呟いていた真琴の部屋に、ノック音が響く。
コンコン、コン。
真琴が返事をするより早く、中に一人の男が入ってきた。彼の顔を見た瞬間、真琴の表情が苦々しいものへと変貌する。
「……
「俺が何か言って変わる人間だと思うか?」
チッ、と吐き捨てるように舌を鳴らした真琴は、男……宮本均を睨みつけた。