強い意志をもって
均は昇吾の右腕ともいうべき秘書だ。そんな彼だからこそ、確かめなくてはならないことがあった。
執務室に入ってきた昇吾も均の覚悟を感じたのだろう。彼は均にただ静かに頷き、挨拶をすることもなく均の言葉を待つ。
ありがたく、均は昇吾に質問をぶつけた。
「それで? この三週間、いったいどうしたんだ?」
「いろいろと、その、複雑なんだ……」
昇吾はため息交じりに答えつつ、見事なマホガニー材のテーブルが置かれた席へつく。
青木産業の最高経営責任者である彼のために作られた執務室には、限られた人間しかアクセスできないようになっている。宮本均はもちろん、その限られた人間の一人だ。
「本当に何を悩んでいるか、正直に教えてくれよ? お前の様子が変だって、昨日の会議の後はアレコレ噂が飛び交いすぎて、おさめるのに苦労したんだぞ」
明るい茶色をした均の目が、探るように昇吾を見つめた。
ここ二週間ほどの昇吾の様子には、納得がいかない面が多かった。
まず一つ目は、突如として昇吾が一人暮らしを始めると言い出したことだった。居住先となるのは、紗希との婚約の際に蘇我家から購入したレジデンスだ。
隣に老舗の五つ星ホテルがあるとはいえ、目線一つで意図を察するような使用人たちから傅かれて生きてきた昇吾には、そのような立地でも一人暮らしは大変そうに思えてならない。仕事に支障を出すような男ではないが、何の目的があるのやら。
均は、何度目か分からないため息をつく。そんな彼の姿に昇吾はどことなく罰が悪そうだった。
「世話をかける」
「本当に。なんで突然、マンションで暮らそうなんて思ったんだよ? まさかとは思うが、ついに真琴と一線を越えた、とか?」
「そういうわけじゃない!」
驚くほど強い語調で、昇吾は均の言葉を否定する。
均はといえば、口を半開きにしたまま何も言えずに黙り込んでいた。一人暮らしを始めた理由は、てっきり真琴との関係を前に進めるためだと思っていたせいだ。
昨今、週刊誌の記者が気にしているのは、蘇我紗希と昇吾の婚約解消の噂ばかり。しかし、決定的な証拠がないためにどこも報じていない。
言い換えれば、何か証拠と言い張れるものが出れば、あっという間にニュースになるだろう。
世間的にはそれほどまでに、昇吾と紗希の不仲は知られたものになっている。
「な、なんだよ……」
まさかそれほど強く否定されるとは思わず、均は怖気づいたように言いよどむ。
昇吾と均の付き合いは、幼少期に通った私立幼稚園まで遡る。
宮本家は、国内有数の大手インターネットサービス会社である宮本通信会社の創業家だ。
名家の子息という立場を共有する二人は、お互いに悩みを打ち明け、支えあううちに、単なる友人から親友と言い切れる仲になっていく。最終的に、義務教育から大学まで同じような道を歩んだ。
そして、昇吾が本格的に社会人として働き始めた折、均に頼み込む形で秘書になってもらったのだ。
そんな経緯もあってか、昇吾は均を強く信頼している。青木産業全体に関わるような大きな意思決定を行う際には、必ず相談するほどだ。
ところが今回は、均へ何の相談もなかった。
「……違うのかよ」
「当たり前だろう。俺はまだ、紗希さんと婚約者同士なんだ。婚約者がいる身で、そんなことをするものか。たとえ相手が真琴だったとしても、だ」
「意外だな。学生時代から、お前はずっと蘇我紗希を毛嫌いしていた。真琴を貶めようとする、本物の悪女だって。俺も決して好きな女じゃなかった。この三年で心を入れ替えるようなあの振る舞いがなかったら、本気で婚約解消をお前に説得しようと思っていたくらいに」
均は思わずため息をつく。青木家と蘇我家が親密になること自体は、かまわない。だが、親友として見たとき、昇吾が不幸になるような結婚をすすめるつもりはほとんど無かった。
昇吾はそんな彼の気遣いを感じてか、気まずそうに言う。
「実を言うと……紗希さんと関連して、あの邸宅で過ごすリスクが発生したんだ」
「うん? どういう意味だ?」
理由が思い浮かばず、均は首をかしげる。昇吾は、一度話を途切れさせる。
それだけで、均には彼が話すべきか迷っているのだと分かった。
しばしの沈黙の後、昇吾が言った。
「……『
「……なんだって?」
均は目を見開き、半歩だけ身体をのけぞらせた。それほど驚いていた。
かつて。青木家には、他人の心の声を聞きとる『心読』という力を宿す人間がいたと伝わっている。
商売人としてこれ以上を望めないほどの力だ。何しろ、取引相手の本音が分かる。本音が分かれば、譲歩すべき範囲や期待すべき成果をより正確に判断できる。
力が発現した青木家の祖先は、そうして商売人として事業を拡大していった。
しかし第二次世界大戦後、血は一気に薄まり、力を持つ人間はほとんど産まれなくなった。居たとしても自覚することは稀で、たいていは『コミュニケーション能力が高い』とか『察しが良い』程度で収まってしまう。
しかし昇吾が嘘をつくとは均には到底思えない。いや、現に、彼が嘘をついていないと均には『分かって』いた。
昇吾は悩まし気に言う。
「お前が持つ宮本家の力……相手の感情に強く同調することで、適した言葉選びや対応をおこなえるというその力を、俺は決して疑ってなどない。だが、俺自身もそうした特異な力を持つ家系に生まれているなんて、これまで全く信じられなかったんだ」
「……でも、今は、分かるんだろう?」
「分かる人間が、限られるんだ。俺には、蘇我紗希の心の声しか分からない」
昇吾は複雑そうに言う。最初、均は気の毒に思った。毛嫌いしていた女の心の声しか分からないとは、一円の価値もない。
だが、昇吾が放つ感情には『感謝』が含まれていた。少しだけ考えて、均は、まさか、と顔をあげる。
「お前が突然、宝石展示会に真琴の意見を挟ませるなと言い出したのは……」
「そうだ。彼女が宝石展示会に関連し、真琴の振る舞いが原因で起こるトラブルを『心の声』で呟くのが聞こえたんだ。自分でも分からないが、実際に言葉に出されるよりも妙に胸に響いて、気になってたまらなかった」
「そんなことが……いや、だったら青木家に居てもいいだろう? なんで引っ越すんだ? 大勢の声が聞こえるならともかく、蘇我一人なんだろう?」
昇吾はハッキリと否定するように首を横に振る。
「俺が二階、彼女が一階にいたとしても、俺には彼女の声が聞こえてしまった。かなりの距離がなければ、勝手に彼女の心を読んでしまうんだ。何なら、電話越しであれば、互いの家同士にいたとしても彼女の心の声が聞こえてきた」
「まあ、それなら、確実に一人でいられる場所がほしいところか……」
「もう一つ。両親は俺に多くの権限を与えているが、青木家そのものを任せたわけじゃない。もしも俺に『力が発現した』と分かれば、すぐさま、俺を家から出すことはおろか、仕事の一つもさせてくれなくなるだろう……」
そちらが本丸らしい。悔しげに言う昇吾に、均はやっと納得できたと感じた。
紗希の心の声が聞こえていると親しい人に分かってしまうリスクを、昇吾は少しでも減らしたいのだ。
「今だって、親類の中には、直系子孫が俺しかいないことをうるさく言う人間がいるくらいだ。あれは、つまるところ俺くらいしか、能力が発現しない可能性があるのを憂いていたんだろう……」
昇吾は年齢を重ねるにつれ、自分と真琴の関係が青木家から何も言われていないのは、真琴が華崎家という蘇我家との交流が深い家系だからだと感づき始めていた。
蘇我家と青木家の結婚は、ビジネス的な目的以上に、青木家の親族にとって『血筋』の相性が良いらしい。
昇吾が苦々しい口ぶりで言う。
「かつて、蘇我家には『過去に遡る』という強大な力を有する人間がいたという。過去を変えれば今が変わる。蘇我家の祖先は、青木家の伝承において、時には歴史すら変えて見せたらしい。紗希さんにも同じ力があるかどうかは分からないが……」
言葉尻を濁しながら、昇吾は背筋が震えるのを感じていた。
── 『前世は』……
それは紗希が幾度となく、心の声で呟いた言葉だ。
過去とは、ある時点から見て昔を指し示す。
そのある時点が、彼女にとって今よりも数年先のことだったら?
蘇我紗希は、今より数年先の未来を知っているのではないだろうか?
流行がたった一日で終わってしまうような現代社会で、数年先の未来が分かるなど、どれほど金を積んでも手に入らない価値だ。
(だとしたら、俺はますます、彼女を手放すわけにはいかない……)
だが昇吾の心の中には、小さな引っ掛かりもあった。
(これは会社のためで、俺の力のためで、それから……)
初めて紗希の力に気が付いた瞬間とは、違う想いを自分が抱いていることに昇吾は気が付いた。
(俺は……)
彼は『真琴との未来のために紗希の心の声を使うつもりでいる』のだと、改めて自分に言い聞かせるのだった。