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第5話 礼司の変化


 青木礼司は自宅マンションに帰り着き、いつものようにパソコンデスクの前に置いたゲーミングチェアに腰かける。

 そのまま兄の昇吾へ、今日の会場で紗希と会ったこと、彼女をタクシーに乗せたことを、メールで報告した。

 少し悩んだが、やはり、婚約者である紗希と個室で過ごした時間があったことを、深く疑る人物もいるかもしれない。そんな時に兄が自分へどのような感情を抱くのか、礼司はそこが恐ろしかった。


 静かな部屋の中に、パソコンが立ち上がる音が響く。


「……紗希さん。あんな人だったんだな」


 兄の婚約者である彼女とは、年に数度しか顔を合わせない。

 特に三年ほど前、紗希が真琴と昇吾の関係をやっかみ、何かと難癖をつけてきた時期は会いたくもなかった。自分が好きな真琴に対し、紗希が長年意地悪をしてきたであろうことが、容易に想像できたからだ。


 何しろ、真琴の家である華崎家は、蘇我家に代々仕える執事の家系だ。

 真琴は幼いころから、蘇我家に仕える母の元で、女手一つで育てられたという。今の華崎家には適した男性がおらず、真琴の母が『執事』として、蘇我家のあれこれを差配しているらしい。

 生まれたときから仕える主が決まっている人生なんて、礼司には想像もつかない。

 だから、漠然と、真琴は辛いだろうなと思っていた。


 実際に会った紗希は高飛車で、真琴に対して敵対心が丸出しだった。常に昇吾にふさわしいのは自分であり、真琴は不要なのだと全身で宣言するような、成金趣味の嫌味な女。



── こいつは、悪女なんだ



 紗希から真琴を守るため、礼司は強くなろうと決意した。そして、いつしか彼女に恋をしていたのだ。

 モニターにいつものデスクトップ画面が映し出されたのを見て、礼司は思考を止める。


「っと、莉々果さんの配信……あれっ、まだやってる。珍しいな」


 礼司はすぐさま、ライブ動画を再生する。

 トップ配信者である莉々果のライブは、いつも盛況だ。普段の倍近い時間を配信しているにも関わらず、三万人近い人が視聴を続けている。

 雑談枠と書かれている通り、視聴者からの相談ごとや話題に莉々果がひたすら反応しているようだ。

 質問内容という枠が表示され、こまかな文章がずらりと並んでいる。


「ふーん……宿題を見せてって言ってくる友達と、仲たがい。それで自分の行動を後悔してる、どうしたらいいかって質問かぁ……」


 女子高生らしい瑞々しい悩みだな、なんて礼司は考えた。


『あー。なんかわかる。私の友達にもね、こういうタイプがいるの。本当はちゃんと色々、自分や周りの気持ちを考えているんだけど、まずは行動って子! でも後悔のスピードも速すぎて、周りによく思われないのよね。なんちゃって後悔に見えるっていうか』


 莉々果が笑いながら言う。

 観始めた当時、礼司は莉々果の配信を仕事のために閲覧していた。広告業界に身を置くものとして、時代に即した発信を常に続けるトップ配信者から、学べることはたくさんあるからだ。

 しかし次第に莉々果の言葉や、彼女の全力で今を楽しむ姿勢が、たまらなく面白くなっていった。今ではすっかり彼女のファンで、彼女の配信サイトやSNSのアカウントはすべてフォローし、常日頃から更新をチェックしている。


『でねー、あたし、言ってやったのよ! 切れる縁は、切れるもんなのよ。腐れ縁って言うけどさ、腐ったら大抵のモンっていつか溶けて消えるじゃない? 確かに後悔とか辛い思いもするかもしれないけど、消えちゃうと思うのよ、そういうのって』


 ヘッドホンを揺らしながら笑みを浮かべる莉々果に、何故か礼司は紗希を重ねて見ていた。


『まあ、腐ったら臭いは残るし、汚れも残るかもだけどさ。だとしても、自分がやった宿題を丸ごと写すのをやめさせたい、って思って行動したの、私は良いと思うんだ。だって自分の努力だもん。自分の成果だもん。だから、あなたが、見せたいって思っているなら別だけど、見せたくないならみせたくないでいいと思うんだよね……』


 礼司は真琴に協力したいと思っている。彼女だけが、自分を礼司としてみてくれたと感じているからだ。

 多くの人が昇吾を選ぶ中、真琴だけが礼司を選んでくれたように感じていた。昇吾という価値を抜きにして、礼司だけを見てくれたと思っていた。


(でも、だったら、俺が選んだ人を、華崎さんが信じてくれたって、いいのにな……)


 以前は真琴さんと呼んでいた彼女を、ここのところ、礼司は華崎と呼んでいる。距離を置こうとする礼司に、真琴はあれこれメールや電話でコミュニケーションをとってくるが、最近は返事もおざなりになっていた。


 考えてみれば、驚くほど単純な話だったと礼司は気が付いた。

 自分は真琴に裏切られたと、強く感じているのだ。

 そもそも、信じてもらえていたかも分からないのに。


 ゲーミングチェアから立ち上がった礼司は、キッチンの戸棚を漁った。確か、と思い出しながらコーヒー豆のパックの隙間を指で探ると、小さな袋が手にあたる。

 何かの折に、取引先から貰った緑茶のティーバッグだ。

 ウォーターサーバーの熱湯をマグカップに注ぎ、ティーバッグを落す。

 華やかさと爽やかさが同居した緑茶の香りが、鼻孔をくすぐった。いつも飲むコーヒーが漂わせる太陽の雰囲気ではなく、土の香気が混じりあう大地の雰囲気を感じとる。

 一口飲むと、渋みの奥から甘みが顔を出した。


「……よし」


 礼司はゲーミングチェアに座りなおす。明日の朝、真琴に渡すための資料を作ろうと考えていた。

 今のチームがどれほどこのプロジェクトに適任なのか、外部からの担当者を入れる必要性の是非について、改めて問いかける。そのうえで彼女に言おうと、心に決めていた。


 ひょっとすれば、彼女は脅しのように、今までの自分の振る舞いを暴露するかもしれない。

 真琴が脅しをするなんて考えている自分が、礼司はどこかおかしくてたまらなかった。


 でも、それならそれでいいと、今の礼司は思っていた。


「腐れ縁は、ここで終わりにします」


 呟く彼の横顔には、血のつながらない兄であるはずの昇吾によく似た、鋭利な雰囲気が宿っていた。


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