礼司にタクシー乗り場まで送ってもらった後、紗希は仕事用のスマートフォンを手にしていた。エスコートしてくれた礼司はというと、電話をしようとする紗希の仕草に、すぐさまその場を離れてくれている。
自宅へ向かうタクシーの中。急いで配信をサポートするメンバーに電話をかけた。
「
『もしもし。大丈夫ですよ、紗希さん』
Hiragiは莉々果と紗希がタッグを組み、新しいチャンネルの配信をし始めたころから入っている男性のサポートメンバーだ。
分かっているのは名前と性別、それから仕事がよくできる人材であること。
紗希は通話かメールでしかやり取りをしたことはなく、直接会った経験はないため、彼がどのような人物かはっきりとは理解していなかった。
だが、莉々果自身が信頼しているため、紗希も頼りにしている。
「莉々果の配信に入れてほしい質問があるの、お願い」
『えっ、インテリアチャンネルの配信じゃないですよ? 大丈夫です?』
驚いた声をあげるHiragiに頷きながら、紗希は早口で囁いた。
「莉々果に『最愛ちゃんのこと』って言えば伝わるわ。お願い」
『分かりました。今、テキストで伝えます……あ、OKでました。早くクレって』
「助かる! すぐ送るわ」
紗希はすぐさま、礼司の悩みに近く、ただし彼のことだと分からないような文章を送る。
悩みの主は女子高生。いつも宿題を聞いてくる親友に、自分でやればいいじゃん、と告げてしまったことで、仲たがいをしたというものだ。
急いで謝ったが、話はこじれる一方。どうしたらいいか、分からない。
そんな悩みの解決策を求める質問だ。
誰かに頼られることは嬉しい。自分を認めてもらえた、と感じられる。
でもきっと、莉々果なら、違う答えを出すだろう。
(これはあくまでもダメ押し……礼司さんが配信を見なかったら、絶対伝わらないもの……)
先ほどの会話ですべてが変わるとは、紗希も思っていない。今後も礼司の動きを見ていくつもりだ。
(莉々果にも感謝を伝えて、と……)
メールやメッセージを確認していれば、あっという間に蘇我家の裏門にタクシーが到着する。
スマートフォンの決済機能で支払いを終え、タクシーを降りた。
見上げれば、すでに蘇我家は宵闇に包まれている。以前は夜の間も灯されていた、庭園の噴水やライトアップが落ちているのが分かった。
時刻が午後九時に近いのもあるが、最近、義母は節電にも熱心らしい。
家計がそれほど不安定なのかと思うと、紗希もあれこれ考えてしまう。だが、家の中のことはすべて義母の支配下だ。
紗希のほうから、口を出すことはできない。それでは、前世と同じ道をたどってしまう。
「紗希様、お帰りなさいませ」
華崎和香が玄関先で待っていた。
深くお辞儀をする彼女からは、敵意は伝わらない。
三年をかけて紗希が身の振る舞いを正し、さらに経済的な自立を果たし始めたころから、和香の態度は大きく変わりつつあった。
(……そうよね。私は確かに、良い方向へ、進んでいるはず)
昇吾に婚約解消をしてもらい、自分らしく生きる。莉々果と二人、ビジネスを始める。
なによりも、華崎真琴とは関わらない。
その選択肢に問題はないはずだ。そうに決まっているのよ。
胸の奥にわずかに首をもたげる、切なさを孕んだ想いは無視して、紗希は彼女に礼を言ってからすぐさま浴室に向かう。
イベント会場は空調がよく効いていたが、初夏特有の暑さも相まって汗まみれだ。べとべととした湿気をシャワーで流そうと、紗希は衣服を脱ぎ捨てていく。
その最中だった。
プライベート用のスマートフォンから、電話が来たことを告げる呼び出し音が響く。何気なく見た画面に『青木昇吾』という文字が浮かんだ。
紗希は顔から火がでるかと思うほど頬を赤く染めた。
「昇吾さん……!?」
こんなにも夜遅くに、彼が電話をくれたためしはない。
おまけに今の紗希は、ショーツしか身に着けていなかった。
慌てて服を着たい気持ちにかられるが、そもそも電話なのだ。彼にみられるわけではないと思いなおし、すぐさま通話に出る。
画面が暗転し、昇吾の顔がスマートフォンの画面いっぱいに映し出された。
「えっ!?」
(まってまって、私、今、ショーツしか着てないのよ!?)
内診で悲鳴をあげながら、大急ぎで紗希は画角を調整する。そして胸が見えていないことを祈りつつ、ピンク色をしたシルクのバスローブを身にまとった。
すると。
『……電話でも聞こえるのか』
呟くように言った昇吾に、紗希は慌てて返事をする。
「昇吾さん? 何か言いましたか?」
(電話でも聞こえるって、何のこと!? とにかくごまかさないと……)
祈るような思いで紗希が昇吾の答えを待っていると、昇吾は首を小さく横に振った。
『こちらの話だ。礼司に聞いたんだが、今日はあいつと会ったのか?』
「え、ああ、え。たまたま同じイベントに参加していましたので」
礼司から話がいったのだろうか。紗希は昇吾が電話をかけてきた理由を考えるが、なかなか思いつかない。
『……あのイベントに参加できるのは、実績のある会社やクリエイターだ』
「え、ええ。わたくしも、莉々果とのタッグがなければ……」
『いや。ただのコラボやタッグだけじゃ参加できない。君自身も評価されていると、思う』
画面の中の昇吾が視線を逸らす。彼が電話をかけてきた理由がいよいよ分からなくなった。
紗希は自身の顔がますます赤くなるのが分かる。
まさか昇吾に褒められるなんて。
『……その、だ。世の多くの働く女性が一人で出歩くことは珍しくない、そう分かっている。ただ、君自身は蘇我家の娘であり、今は保留だが青木家の婚約者なんだ。せめて、家の、あるいは会社の者と出歩くほうがいいんじゃないか?』
続けて放たれた言葉に、紗希は浮ついた気持ちがしぼむのを感じた。
(……小言を言ってから褒めてくれたのなら、印象も少し変わるのに)
ただでさえ、紗希にとって、前世から数えても数度もないような昇吾からの電話だ。
婚約解消を願っている立場ではあるが、紗希からすれば、昇吾は前世から変わらない想い人のままだったと自覚せざるを得ない。
「……ご忠告痛み入ります」
(礼司さんに悪いことをしたわ……昇吾さんから何か言われていないと良いけど……)
紗希がそう伝えると、昇吾がはっと息を呑む音がした。
『いや、礼司がエスコートをしたと聞いて、安心したことを伝えたかったんだ。責めているわけじゃない、ただ……』
「ただ?」
(ただ……?)
『……いいや、やめておく。またの機会もあるだろう』
言いにくい話なのだろうか。昇吾の真意を探ろうと紗希はじっと画面を見つめたが、いくら技術が進歩しようとも、個人が放つ雰囲気を感じることはまだまだできそうにないと分かっただけだ。
ただ。
(またの機会、か……)
礼司に対しては、またの機会があることを願っている。彼が考えを変えれば、少なくとも一人の命を救えるかもしれないからだ。
しかし昇吾に対して、紗希は自分の気持ちを決めかねていた。
三年もかけて自分の運命を変えるための用意をしてきたというのに、電話一本で気持ちが揺らぎかけているのが、本当に嫌だった。
「ええ、そうですね……わたくし、まだ、あなたの婚約者ですもの」
紗希は沈黙を選び、微笑みを浮かべる。
心の中に薄く氷を張るようにすると、噴き出しそうになる彼への情熱が、お腹の奥で渦巻くのが分かった。
『紗希さん』
「……なにか?」
(落ち着きなさい、私。大丈夫……)
『……ああ、その。すまない。君に、事務的な連絡以外で、電話をしたことがなくて』
「そうでしたっけ?」
(……確かに、そうかもしれないわね。前は私の方から電話をかけていたけれど、最近はそれもやめてしまったし)
昇吾は少しだけためらう様に、画面の中でそっぽを向く。ぐしゃり、と右手で彼は髪を握るように混ぜた。
彼を何か苛立たせてしまっただろうか。紗希は少し不安になる。
『……それじゃあ、おやすみ』
聞こえてきたのは、何でもない夜の挨拶だった。
「お、おやすみ、なさい……」
頭が真っ白になりながら返事をすると、昇吾がホッとしたように息を吐く。
『すまなかった。おやすみ、と挨拶をするのが、今の時間にはふさわしいと分かっているんだが。なんだか、こう、気恥ずかしくてね』
気まずげに微笑みかけてくる昇吾に、紗希は胸の奥で心臓が──ドンッ、と大きく跳ねるのを感じていた。
(わらっ、た……)
昇吾が自分に、笑いかけてくれた。
全身に喜びが駆け巡り、紗希の指先から力が抜ける。はらりとバスローブが肩から流れ落ち、ピンク色の絨毯のように足元に広がった。
目元にあついものが込みあがり、それが涙だと理解すると同時、ぽろり、と零れ落ちる。
ずっと願っていた。命を落とす瞬間も、ずっとずっと、思っていた。
彼に一度だけでも、微笑みかけてほしい、と。
それがこんなときに叶ってしまうなんて。
『えっ。紗希さん?』
驚いた様子で声をあげる昇吾に、紗希は慌てて涙をぬぐい、顔をあげる。
「私のほうこそ、すぐに言えなくて、ごめんなさい」
この三年。紗希はずっと昇吾に『わたくし』という一人称で通してきた。しかし今、突然の出来事も相まってか、紗希はいつもの一人称である『私』を使ってしまったことに、気が付いてさえいなかった。
「もう夜も遅くなりましたから。おやすみなさいませ、昇吾さん」
『……あ、ああ。おやすみ。その、風邪は引くなよ』
電話が切れる。
頭の奥がぼんやりして、紗希はその場に立ち尽くす。それでも、確かにショーツ一枚のまま過ごすわけにはいかない。お風呂に入ろうと紗希が振り返ると、涙を目に溜め、頬を真っ赤にした自分と視線が合う。
鏡に映る自分は、ショーツ一枚なことがまるわかりな姿をしていた。
つまり、ひょっとして。
(……ひょっとして、鏡越しに、昇吾さんに私の姿が見えていたということ!?)
ありうる。風邪をひくなという声掛けも、紗希の今の状態を見れば、変な声掛けではないはずだ。
前世では肌を見せるといっても、衣服を着た状態だけだった。
羞恥から思わずその場にしゃがみこんだ紗希は、膝を抱えてため息をつく。
次はどんな顔をして昇吾に会えばいいのだろう。今の紗希には、全く分からなかった。