死に戻る前。
いわば前回の青木礼司が受ける周囲からの評判は、良いものではなかった。
周りも昇吾たちも含めて『華崎真琴は青木昇吾の恋人』と認識していたにもかかわらず、礼司は『自身こそが華崎真琴の真の恋人』だと信じ込んでいた。
(思いだすと不思議だわ。礼司が『真琴さんは自分の恋人だ』思い込んでいるのに、どうして周囲も、昇吾さんも、なにも言わなかったのかしら……)
真琴が異性の気を引く手管に長けた、とんでもないスパイのような女性だったとする。
だから、礼司も思わず真琴のことを愛してしまった。兄へのコンプレックスも重なり、彼女を奪うことで昇吾への複雑な感情に蓋をしていたのかもしれない。
だとしても、真琴は礼司の恋人だと彼自身が口にすることを、昇吾や青木家は許すだろうか。
少なくとも前世では華崎真琴こそが青木家の真の婚約者だと言わんばかりに、彼女を昇吾も青木家も大切にしていた。
ならば浮気とも受け取れるような礼司と真琴の関係を野放しにするのは、リスクが高すぎるようにも思える。
違和感を紐解こうと集中していた紗希は、礼司がやっと口を開くのを見て、はっとして思考を止める。
「あの。紗希さん。質問を質問で返してすみません。……華崎さんについて、貴女はどう感じていますか?」
礼司は緊張した様子で、まるで教師に質問する生徒のように真面目な表情で尋ねた。
驚きつつ、紗希は答える。
「えっと、そうね……。彼女はとてもよく昇吾さんを支えてくださっているわ。昇吾さんの会社で部長になるなんて、誰でも出来るようなことじゃないもの。それに、ここだけの話だけど」
紗希は声を潜める。周囲が聞き耳を立てていないか確認する振りをすれば、礼司はすぐに傍らに立つ男に目線を放った。
男が頷くと同時、人垣がサーッと離れていく。そのまま二人は場所を移動し、会場に設けられた商談向けの個室に入った。
回転を良くするためか、三十分限定で使用できるように、外には係員が待機していた。
中には会場と異なるクラシック音楽が流れており、防音など諸々の設備も整っている。
これなら人に話を聞かれるリスクは低いだろう。紗希はホッとする。
「ごめんなさい、気を遣っていただいて」
「いえ。俺の方こそ……」
「でもとてもありがたいわ。話したかったコトが、コトだから。……実は、昇吾さんには、わたくしから婚約解消を申し出ているの」
流石に礼司も驚いたらしい。彼は口を半開きにしたまま、しばらく黙り込んだ。
紗希はここぞとばかりに畳みかける。
「以前から考えていたの。私と昇吾さんは、家同士の都合で決まった婚約者だわ。けれど、今となっては家同士の都合から考えたとしても、お互いにメリットがない。というか、青木家にとって蘇我家がお荷物になるとしか言えないのよ。昇吾さんには真琴さんがいらっしゃるし、わたくしとの婚約を続けたとして……果たしてそれは、昇吾さんご自身の人生にプラスになるのかしら?」
目を伏せて紗希は静かに続ける。
「もちろん、わたくし自身、確かに、昇吾さんの妻になることに胸をときめかせていたわ。でも、世のことをあれこれ知るうちに、やりたいことにチャレンジする人生に大きな魅力を感じ始めたの」
しばらく聞くだけになっていた礼司は、深く頷いた。
「……確かに、以前の紗希さんと、良い意味で印象が違うのは事実です。今日だって、以前の貴女のままなら、自分は話しかけようとさえしなかったでしょう」
「ありがとう。私の決心や努力が伝わっていたなら、こんなにうれしいことはないわ。もちろん昇吾さんの妻になることも魅力的だけど、お互いが不安や不幸を抱えての結婚なんて、そんなのダメよ……」
ため息をつきながら紗希は肩を落とす。
本心を言えば、昇吾との結婚生活を考えないわけではない。しかし彼と結婚生活を送るにしても、今となっては具体的な様子を思い描くことさえできなかった。
昇吾と同じ家に暮らして、食事を共にして、彼の仕事の話を聞いて……。
そのイメージだけを思い描けば、ドキドキと胸が高鳴るような気持ちになる。
しかし。
(だめ、全く想像できない……)
紗希の中に残る昇吾とは、華崎真琴だけを愛し続けるよく言えば一途な男だった。
だがその一途さは、紗希には向けられない。もらえるのは冷たい眼差しだけ。
この前の宝石展示会でのプレゼントを思い出すと、今でも信じられない気持ちでいっぱいだ。
そんな中で紗希が彼との生活や、これからの人生を思い描くのは、とても難しかった。
甘い想像なんて、何も考えていなかった前世の方が、幾度もしていたかもしれない。たとえばデートとか、お泊り会とか。思い返すと、顔が赤くなるのが分かる。
恥ずかしさもあるが、そこにときめきを感じるのも事実だった。真琴と昇吾が幸せになれば、自分は命が助かるのかもしれない。
けれど、本当にそれで、自分は幸せなのか……。
思考が散らかりかけるのを感じて、紗希は慌てて礼司を見つめ、意見をまとめた。
「ともかく。わたくしは、昇吾さんと真琴さんの仲は、応援しているの」
「じゃあ本当に、紗希さんは華崎さんに対して、決して悪い感情は抱いていないんですね?」
「そうね」
本心は違う。
紗希は、華崎真琴を恐れている。
礼司が凋落するきっかけとなったのは、とあるテレビCMだ。
近年、特に青木家が力を入れるインターネット関連事業のCMで、礼司も張り切っていた。ところが吉岡という女性が突如として礼司によって抜擢され、プロジェクトから外された男性社員が思いつめて自殺してしまう。
礼司は自殺の原因になったのではないかとパワハラを疑われ、青木家の次男が起こしたスキャンダルとして大々的に報道された。
驚いた紗希が『昇吾のピンチ!』だと思って礼司に真相を確かめると、確かにその通りだと彼は言った。
自分自身で決めたと前置きしたうえで、彼はこうも言ったのだ。
「これで真琴さんの人事部での成績にも貢献できる……」
驚いた紗希は礼司に『そんなことをしてはいけない』と問い詰めた。だが結果は、礼司からの逆恨みによる、紗希への責任転嫁だ。
あろうことか礼司は、紗希が未来の義理の姉という立場を利用して、学校の後輩である吉岡を礼司に贔屓するようねじ込んだとでっち上げた。もちろん紗希は吉岡なる女性を少しも知らなかったが、確かに中学校時代に一年だけ吉岡と同じ学校に在籍していたことが分かり、世間の非難の目は紗希に向いた。
今はまだ起きていない。
だが、起きるかもしれない出来事を思い出し、紗希は身を震わせる。
すると礼司が呟くように言った。
「紗希さん。……俺自身は華崎さんを、どう考えていいのか、もうよく分からないんです」
紗希は小さく首をかしげる。
「分からない、というのは?」
礼司はテーブルの上に両手を組んで置いた。指先をからませ、自身の考えを整理するように話し出した。
「華崎さんには俺も世話になっています。兄の優秀な部下である以上に、彼女は社内でも指折りの実績を誇りますし……」
「ええ。わたくしもそう聞いているわ」
「でしょうね。さらに俺も兄と同じ学校に行かされましたから、二人のことは噂で何度も聞かされていました。だから人となりは知っているつもりでした」
どこか過去を懐かしむように、礼司は遠くを見た。