婚約解消の申し出から一週間が過ぎた。
紗希はシルクのイブニングドレスを身にまとい、小ぶりの天然真珠のイヤリングを輝かせながら車から降りる。
すると、即座に手が差し出された。昇吾の手だ。彼の表情をちらりと伺いながら、紗希は微笑みを浮かべる。
「ありがとうございます、昇吾さん」
(どういう風の吹き回しなのかしら、本当……)
本心では疑問でいっぱいになりながら、紗希は微笑みを浮かべた。
十二センチほどのヒールがある靴を履いたおかげか、いつもより視界が高い。
普段、仕事中は動きやすさ重視で靴を選ぶ。こんなにもヒールのある靴を履くのは、本当に久しぶりだった。
会場へ入ると、紗希に視線が集中する。ざわめきが衣擦れよりはっきりと聞こえた。
(まあ、皆さん不躾ね。動物園や水族館の展示物になった気分だわ……)
紗希は心の内でそう考えながら、会場を見回す。すると即座に、視線が離れていった。
都内某所で披かれた、シークレットの宝石展示会。並ぶ宝石も、会場を設営した部分的、あるいは全てを、青木財閥の有する企業が手掛けている。
雇い主を飛び越えた商業帝国の王族である昇吾の隣には、蘇我紗希が並んでいた。
婚約者である彼女が、昇吾の隣にいることは何らおかしくない。しかし会場にいる面々は、何やら興味深そうにこちらに視線を送っているのが分かる。
(今日の主役たちが可哀そうよ。こんなに美しく飾られて……)
考えながらも、紗希もどうして昇吾が自分を連れ歩いているのか、まるで分からなかった。
この宝石展示会は、前世の記憶通りであれば、紗希がレストランで昇吾に注意を促すはずだった『真琴による成果の乗っ取り』だ。ところが妙なことに、紗希の記憶とは異なり、会場に華崎真琴の姿はない。
前世で紗希が突き止めていた本当の担当者が、昇吾と紗希を案内している。
昇吾から紗希へ『展示会に一緒に出てくれ』と知らせがあったのは、つい三日前のことだ。最初は驚いたが、まだ婚約解消が保留となっている以上、紗希が断る理由は存在しない。
彼女が頷くと、昇吾はホッとした様子で、彼女に展示会に関するパンフレットや資料を送ってくれた。
二人は会場を進んでいく。昇吾は周囲からの視線に気が付いてはいるが、まるで意識していない様子だった。
「良い展示だな……スマホの反射もない。確かこのケースは」
「ええ。青木グループの一つ、青風硝子の開発品ですわね」
紗希が答えると、昇吾は眼前のケースに視線を戻した。職人の技術により磨き上げられた、大粒のエメラルドを冠した指輪が輝いている。
そして隣のケースには、虹色に輝くパールのイヤリングが収められている。
確かにどちらも美しい。
しかし。
(そうね。特別製のケース入りなら、本当にあなたたちが今日の主役かしら? ふふっ……)
紗希の微笑む声が聞こえる。
昇吾自身が覚えている限り、隣にいる彼女が『主役たち』と宝石へ呼びかけるような人間だとは、到底思えなかった。
視線に気が付いた彼女が、小首をかしげるようにして昇吾を見上げた。
「昇吾さん、どうしましたか?」
(それもこれも、あなたが私をここに連れてきたせいですけどもね? ……)
現実で聞こえる可憐な声色とは裏腹に、ずいぶんと恨みがましそうな声。
ついこの前の『婚約解除』を紗希が申し込んできた日から、昇吾は
どちらも紗希本人の声なのだが、可愛らしさをキープした声が『他の人間にも聞こえている』ことはわかっている。
先の会話で言えば「昇吾さん、どうしましたか?」は、周囲にも聞こえている声だ。
対して、もう一つの声に関しては、どういうわけか、昇吾にしか聞こえない。
このもう一つの声を、昇吾は『心の声』と呼んでいた。まるで漫画のテレパシーを操るサイキックになったかのようだ。