眉を顰めながら、紗希は猛スピードでメッセージを打ち込む。
《計画変更よ、莉々果。婚約解消を断られたの!》
数秒後。驚きを示す絵文字が連打される。ひっくり返った亀の画像が送られてきたあと、今度は短いメッセージが送られた。
《嘘でしょ?》
《嘘なんてついてる暇はないわ》
紗希も、間髪入れずに返事をした。緊急性が伝わったらしい。莉々果の返事が遅くなる。
《ええと……どういうつもり? だって、最愛ちゃんとの関係も悪くないわよね?》
莉々果が最愛ちゃんと呼ぶのは、華崎真琴のことだ。
トップクラスの配信者として活躍する莉々果は、数多の配信サービスの登録者を総計すれば2千万人を優に超える。そんな彼女は、何かと物事の表現が独特だ。
《最愛ちゃん、まさか喧嘩した、とか?》
そんな莉々果でも、今の事態はうまく呑み込めないらしい。
《そうなの……真琴さんの悪癖には、昇吾さんは気が付いていないみたいだけど、でもだとしても私との婚約解消をどうして渋るのかしら?》
《気になるね。というか、婚約解消が長引くなら……うちらのビジネスも延期になるよね》
紗希は、うぐっ、と詰まる。
楽しく食べ、遊び、気に入らなければ次に行くのが楽しいのだと考えている莉々果に、紗希は前世で大いに貢いでいた。中学生のころ、一度だけ同じクラスだったことを、大いに周囲に自慢していた記憶もある。
思い返すと、顔から火が出る程。恥ずかしい。
(莉々果と仲良くして、彼女と友達というステータスをただ保ちたかったのがきっかけだけど……最後には、彼女だけが、友達だったのよね……)
あの河原で命が尽きる間際。紗希が連絡を取ろうとしたのは莉々果だった。
だから。今生で莉々果に出会ったとき、不覚にも涙をこぼしてしまったのを覚えている。
最初は泣き出した紗希の様子と、『あの青木昇吾の婚約者?』という興味で会話に乗ってくれた莉々果だが、今は紗希の先見の明を認め、友人兼ビジネスパートナーとして付き合ってくれている。
もっとも紗希のもつ先見の明が有効なのは、あと2年程度だ。それまでに紗希が自由を手に入れるには、昇吾との婚約解消が重要となる。
《そうなのよ! でも、方々への調整が必要になるとはいえ、どうして断るのか全く理由が分からないの。今日だって、真琴とこのあと出張の打ち合わせがあるから、話を短くしろと言われたのよ? おまけに、ドアの向こうには真琴さんがいたはずなの。ドアが動くのが見えたのよ》
《本当に最愛ちゃんかは分からないでしょ。でも、ないとは言えないのが恐ろしいけど……》
《ねえ、どうしたらいいと思う?》
返事が来ない。
そのタイミングでタクシーが駅前に到着した。代金は蘇我家が支払うと言われたが、無理を言って紗希は運転手に五千円札を渡して、雑踏に降り立つ。
耳慣れた駅のチャイムや発着を知らせるメロディーを雑音としてやり過ごし、紗希は乗り慣れた山手線へ足を進める。これからどうしようか、未来にばかり意識を向けていれば、あっという間に目的地だった。
改札を出た紗希は、どこにでもありそうな築二十年ほどのビルに入る。ここが、紗希が拠点とし、同時に莉々果との次のビジネスを手掛ける現場でもあった。足音を立てながら歩いていくと、即座に二階のドアの一つが開いた。
チョコレート色の瞳をきらめかせ、艶やかな茶色の髪をハーフアップにした莉々果が、待ちかねていたようにこっちを見ている。引き締まった腕と形の良い胸元を際立たせる身体の線に沿ったチューブトップ姿だ。
「はぁい、紗希! はやく、こっちこっち」
事務所に招き入れられて、紗希はやっと肩の力が抜けた気がした。
冷蔵庫から炭酸飲料を持ってきた莉々果が、はきはきとした口調で言う。
「本当に驚いたわね。婚約解消をあっちが断るなんて!」
「まったくよ……」
受け取った炭酸飲料に口をつけて、紗希は頷く。家族が集まる祝い事も友達が大勢来るような楽しいパーティーにもいかないで仕事をしていたのはなぜか。どうして婚約者が幼馴染と楽しそうにスキンシップを取るのをそのままにしていたのか。それは、婚約解消をして、物語の悪役となる未来ではなく、自分だけの未来を手に入れるためだったのに。
だが、全ては昇吾の婚約解消を保留するという発言で台無しになってしまった。
撮影用の小道具やパソコンが並ぶ事務所を眺め、紗希は物思いにふける。せめて、あと二年で訪れるであろう、無念の死だけは避けたいのだけど。
「でもね、一つだけ言っておくけれど。私は紗希がもしもこのまま上手くいかず、婚約解消が保留され続けたとしても、あなたの選択を応援するし、ビジネスパートナーも友達も辞めないわ」
ぱちん、と莉々果がウインクを飛ばしてきた。
紗希は驚いて彼女のチョコレート色の目を見つめる。嘘があるようには見えなかった。
「それは嬉しいけど……でも、紗希、それは……」
「この3年間、私はずっとあなたと仕事をしてきたわ。そして私は、ずっと正しいと思っていたことが、本当のところは『違うかもしれない』と感じ始めたのよ」
莉々果は言う。彼女はつま先に施したピンクのグラデーションのネイルを、じっと見つめていた。
「食べること、飲むこと、遊ぶこと、楽しむこと。それが人生の全部だと思っていた。でもあなたは、自分の未来を変えるために突き進んでいる。どんなに辛い思いをしても、青木家と結婚しちゃえば玉の輿どころか、ドラゴンに飛び乗って天を突き抜けるようなものよ? それを、まさかの婚約解消、それに自分の会社を立ち上げるなんて夢を持っている……!」
「でも……だったら貴女の方がすごいわ、莉々果。貴女は何千万人もの人から支持を受けてるのよ? 世界規模で有名な日本人の配信者なんて、数える程度しかいないわ」
「ある意味私はラッキーなだけだったのよ。バズるなんて、時の運だし。そこを、紗希、あなたは自分で切り開いてるんだから」
目の前にある白いローテーブルの戸を開けて、莉々果はお菓子を引っ張り出した。どこかのお菓子メーカーから案件としてもらったらしい。たっぷり詰まったお菓子の山が、床にカラフルな模様を作った。
「とりあえず食べましょう! 婚約解消は保留、なんでしょう? だったら、保留を撤回させて、解消へ向かわせるのがベストよ」
しばらく考えて、紗希は納得する。確かに、今できるのはそのくらいだろう。
「……そうね。それに、実はもう一つ、別のプランがあるの」
「え、なになに?」
面白そうに、莉々果は身を乗り出した。