玄関ホールで、紗希は呼び止められた。
「蘇我様。お帰りでしたらわたくしめが……」
送迎を申し出る青木家の執事、田中を振り返る。
ロマンスグレーの頭髪をぴっちりと整えた彼は、六十代後半ほど。紗希が覚えている限り、昇吾の父親の代から仕える古株のはずだ。
「ありがとう。でも、自分でタクシーを呼びますから」
「ではせめて、こちらで手配させてくださいませんか」
「……そうね。なら、お願いしようかしら」
応接間として使われる部屋に案内され、すぐさま紅茶が運ばれる。紗希の好きなメーカーの、それもアイスティーだ。この短時間で用意できるとは思えない。
婚約解消の申し出について、この執事はどこまで把握しているのだろう。老齢の彼から情報を得るには、紗希にはまだ経験が足りなさすぎる。
頭の中でこれからのことを考えながら、紗希は窓の外を見る。眩い緑の陰で、庭師が丹念に萎んだ朝顔の花を摘んでいた。
(婚約解消を言い出すなんて、向こうは思っていなかった? でも、私の行動は、昇吾さんと真琴をくっつけるためのものになっていたはずなのに……)
意識が過去を目指すように、ぼんやりとしていく。
思い返すのは……前世の紗希自身だった。
紗希はレストランにいる。
向かい側には昇吾がいて、彼は前菜として用意された鮮やかなトマトのムースに手を付けていた。
紗希が何か言いたげにしていても、彼は食べる手を止めない。
それだけで、紗希には昇吾が自分の話を聞く気がないことが分かっていた。
だが言わずにはいられない。紗希は目に強い力を宿して言う。
「昇吾さん。どうしてあんな性悪女と一緒に食事に向かわれましたの?」
「真琴のことか?」
鋭い目で、昇吾が紗希を睨んだ。先ほどまで手を付けていた前菜から、さっさとフォークを引いている。真琴のこととなれば、昇吾がなんにせよ怒るのは分かり切っていたのに。
「ええ。華崎真琴さんのことです。彼女はまた、また、見知らぬ男と寝たようですわ」
「何を根拠に?」
「根拠も何も、彼女のような人間がのし上がるにはそれしかありませんもの。ご覧になって? 彼女が対応した新作ジュエリーの展示会は……」
「やめろ。真琴は俺の部下でもある。そのような不正を、俺が見逃すと思うか?」
ふん。紗希は鼻を鳴らす。
「見逃していらっしゃるから、こうして席を設けたのです。会社に怒鳴り込まないだけ、マシ、と思っていただけますこと?」
「そこまで頭が回る癖に、いくら婚約者とはいえ、言って良いことと悪いことの区別すらつかないか?」
完全に口喧嘩だった。にらみ合う両者には、冷たい空気が流れている。
そこへ、華やかなジャズの音色が響いた。紗希はこの音が嫌だ。真琴のため、特別に昇吾が設定した、電話の通知音。
その音の後、何度も、なんども、紗希に対して昇吾が何とも思っていないのだと、思い知らされてきた。断りも入れずに、昇吾が電話に出る。
「もしもし? ああ、真琴か……」
蕩けるような笑みを、昇吾が浮かべた。紗希には一度たりとも、向けたことのない微笑み……。
その度に、紗希の胸は切なさと、怒りと、憎しみとで、ぐちゃぐちゃになる。
私は彼を愛している。でも彼は私を愛することは、決してない。彼の胸には常に、華崎真琴がいる。
「……っ!」
見ていられなくて、紗希は席を立つ。レストランの従業員が、あっ、という顔でこちらを見るのが分かった。
冷静になれば、ほんの少しだけでも周りを見る余裕ができれば……紗希は、従業員たちの小さくない落胆に気が付けただろう。レストランは痴話げんかの場じゃない、などと、言いたかったかもしれない。
昇吾に夢中になり、そして真琴を憎むあまりに、紗希は多くの人の感情を見落としていた。
「……き様。紗希、様。蘇我紗希様」
「えっ……?」
過去の淵から我に返り、紗希は田中へ微笑みかけた。
「まあ、ごめんなさい。少し、物思いにふけりすぎたみたいだわ」
「いえ。その……何か、坊ちゃん、ああ、いえ。昇吾さまは、婚約解消の申し出について、どうおっしゃられましたか?」
紗希が態度を改めて以来、田中は少しだけ紗希へ味方をする様子が増えていた。
「実は、婚約解消の申し出を保留にされてしまったの」
田中は驚いた様子で紗希を見つめた。年月を重ねた焦げ茶色の虹彩が、カメラレンズみたく絞られる。
「思ってもみなかったわ。さてと、タクシーが来たようだから、わたくしはこれで」
「……では、またこちらにおいでいただく機会があるという事ですね?」
「ええ。もうしばらくだけ、ご厄介になります」
「いえいえ……それでは」
見送る田中のまなざしは、どこか優しい。
紗希はそれを不思議に思いながらも、気にしている暇はないとばかりに、席を立った。
タクシーに乗り込んだ後、目的地への最寄り駅を頼み、自身はスマホを睨みつける。
そしてすぐさま連絡用のアプリを立ち上げると、そのトップにあるアイコンをタップする。
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