ありえない。
今日まで、紗希という婚約者がいるにもかかわらず、昇吾のそばには常に真琴の存在があった。彼女と昇吾が結婚し、紗希は身を引く側だとこの三年間で周囲は思っている。実際、紗希は死に物狂いでそのように仕向けてきたし、真琴と昇吾の振る舞いもその通りの内容だったはず。
また、紗希自身は、前世のように昇吾に付きまとってもいないし、最低限の接触だけで済ませている。
さらに蘇我家と青木家、二つの家における二人の結婚にも、あまり旨味は無いはずだ。散々時間をかけて作り上げたプレゼン資料で、紗希は二人の婚約解消のメリットを訴えかけたというのに。
彼女がそんなことを考えていると、昇吾が眉を顰める。紗希は慌てて言葉を続けた。
「……昇吾さん。今日まで私は決して良い婚約者ではありませんでした。そのような人間より、一度きりの人生なのですから、好きな人と」
「確かに婚約者という視点で見れば、俺にとって良い相手ではなかった」
「だったら」
「だが、君自身は……思った以上に、面白い人物のようだ」
紗希は衝撃のあまり、何も言えない状態に追い込まれていた。婚約解除の却下だけでも驚きなのに、紗希に対し昇吾が『面白い』と言うなんて、前世から考えてもあり得るわけがない。
久しぶりに正面から見つめた昇吾のまなざしが、自分の内心を見透かすような気がしてくる。すると彼が、真剣な口調で尋ねた。
「君は俺を……どう、想っているんだ?」
本当に私の心の声が聞こえているのかしら。紗希は戸惑いを隠せなかった。
しかし。瞬間的に、
(《《今だって好きよ。愛しているわ》》……なんて言ってしまえば、この人はどう思うのかしら?)
と、いう考えが思い浮かぶ。
すると。昇吾が何か戸惑った様子で、紗希を見つめ返してきた。
その眼差しに応えるように、紗希は返事をする。
「大変魅力的な男性であると感じておりますわ。ですが、それゆえに、わたくしの振る舞いが、昇吾さんの輝きを傷つけてしまうのではないかと不安になります」
昇吾はたっぷりと五秒は黙り込んだ。そして、頭痛でも起こしたかのように深いため息をつくと、顔を両手で覆う。
「……とにかく、婚約解消については保留にさせてくれないか。今は、その、正常な判断ができなさそうだ。突然の話だからね」
そう言われてしまっては、紗希は引き下がるほかない。
昇吾の姿から見ても、自分が考えていた状況とは異なり、彼にとって婚約解消がメリットになっていないようにも見える。
(仕方ないわ……プランを変えましょう……)
内心で呟きながら彼女が頷くと、昇吾はやはりどこか戸惑ったような表情で紗希を見つめ返した。
紗希は思わず彼の琥珀色の目を見つめ返そうとする。
その時だった。
「昇吾。そろそろ時間……まあ、紗希さん、ごめんなさい」
ドアを開けて部屋に入ってきたのは、透き通るように白い肌と、一切の癖がないまっすぐな黒髪の女性だった。豊満な胸元を包み隠すようなフリルつきのシャツに、グレーのスカートとジャケット。程よい透け感の黒いストッキングの向こうに、魅力的な形をした足が見える。
地味さを演出するような細身のフレームの眼鏡の向こうで、小さな猫のような黒い目が丸くなっていた。
「申し訳ございません。わたくしの方こそ、お手間をとらせましたわ」
紗希は緩やかに笑みを浮かべ、彼女を見つめ返した。
彼女が……華崎真琴。紗希が今生で、絶対に、近づきたくない女だ。
昇吾が答えを保留にしたのをみて、タイミングよく出てきたのだろう。
しかし、昇吾から見れば、彼女が時間ぴったりに到着したと言えるのかもしれない。
紗希の方が時間を多く使いすぎたと見えている可能性もある。
いずれにしても、紗希にとって真琴との接触は避けたかった。
「昇吾さま、わたくし、良い返事を期待しておりますわ」
微笑みを浮かべて紗希が言えば、昇吾は普段通りの顔で頷いた。紗希は踵を返し、沈黙を保ったまま部屋を出る。
後ろから追いかけるように、真琴の声が響いた。
「ねえ、いったい何のお話をなさっていたの? 時間の調節はまだ効くのだから、昇吾。ぜひとも、紗希さんと……」
心配するような声。
しかし、紗希には真琴の考えが透けて見えるような気さえした。
いつも通り。昇吾は彼女の言葉に賛成の意を示すのだろう。
「俺の方が話を保留にしたんだ。とにかく、真琴。出張の打ち合わせをしよう」
「……そう」
会話は紗希がドアを閉めたところできれいさっぱり聞こえなくなる。
しかし紗希は、ほんの少しだけ、驚いた。
昇吾は普段、紗希の言葉を否定するような物言いをする事が多かった。真琴が進言するような内容については、特に。
でも、今の昇吾は、自分の意見だったと、はっきりと真琴に伝えてくれた。
紗希は一瞬だけ舞い上がりそうになる気持ちを抑えて、踵を返す。
(どうしようかしら……とにかく、婚約解消をうまく進められないなら、その間にせめて『被害』を減らさなくっちゃ……)
紗希は足早に、廊下を進んでいった。