「その。君は、ええと、そんなにも、その、独り言を言うタイプだったか?」
昇吾に何を言われたのか、紗希は瞬間的には理解できなかった。
「……
思わず聞き返した紗希に、昇吾も自分の問いかけが奇妙だと分かっているのだろう。
何とも言えない硬い表情のまま、紗希の目を見ないように部屋の隅に視線を放っている。
(突然どうしたのかしら? 独り言って? まさか、婚約解消の申し出を活用した何らかの策略……?)
すると昇吾がハッとした様子で紗希を見て、怒ったような口調で言い放つ。
「そんな策略を立ててどうする?」
紗希の内心の声が聞こえていない限り、出てこないような言葉だった。
どういうこと? 紗希はとにかく意味が分からなくて、昇吾の言葉に首をひねるほかない。だが状況が呑み込めていないのは、昇吾も同じらしかった。
「っ、その、策略、というのは……」
「あの……わたくし、何も話しかけてはおりませんが?」
「……いや、そうだな、その通りだ。気にしないでくれ」
戸惑った様子で、昇吾は呟く。
彼の眉は顰められており、秀麗な顔に戸惑いが浮かんでいた。
普段……つまり、紗希が記憶する限りの青木昇吾は、常に自信たっぷりの男だった。
しかし今の彼は焦りと疑問でいっぱいなように見えてならない。
「あの。昇吾さま。わたくしの申し出が、それほど驚きでしょうか?」
紗希は今日まで昇吾との婚約解消に向けて、出来うる限りの用意をしてきた。昇吾側にも、この意向は伝わっていたはずなのに。
にもかかわらず、昇吾は戸惑っているのが、紗希には不思議でたまらなかった。
「……確かに、驚き、ではある。その、ああいや、君が婚約解消を言い出したことには、驚いていない。事前に情報は、その、つかめていた」
「でしたら、余計に驚きですわ。あなたが驚く、そのこと自体が」
昇吾はしげしげと紗希を見つめた。
彼女は昇吾にとって、家同士の都合で勝手に決まった婚約者だった。彼女をまともに見つめたのは、婚約が決まった年以来かもしれない。そう思うほどに、昇吾にとって紗希は不気味なくらいに視界に入らない存在だった。
いったいなぜ、どうして?
急に靄が晴れたように、紗希の力強い目が昇吾を射抜いてくる。初めて出会ったとき、紗希は彼女の母譲りだという漆黒の目に、深い夜のような黒髪。そして自身で運命を切り開こうとする強い信念を感じさせる、凛とした顔立ちの少女だった。
しかし……真琴に出会う機会が増えるにつれ、紗希は茶色い髪に代わり、カラーコンタクトをつけ、何かがおかしくなっていったのだ。そんな彼女から昇吾は距離をとった。
三年前からは紗希も大人になったのか、昇吾と真琴をそっと影から見守るようになった。カラーコンタクトは種類を変えて、彼女の漆黒の瞳を引き立てる紫色になっている。黒い髪を茶色に染めているおかげか、彼女の凛とした雰囲気が少しだけ柔らかくなっていることに昇吾は気が付いた。
彼女が身にまとうネイビーのワンピースの下で、均整の取れた肢体が女性らしい曲線を描いているのが分かる。モデル体型というのだろう。同じように魅力的な肉体の女性を昇吾も数多く見てきたが、紗希のように生まれながらの均整を保っている人間は、久しぶりに見た気がした。
(おかしい。どうしたんだ、俺は……どうして、どうして彼女の、まるで、内心の声が聞こえているような……?)
昇吾は賢明に頭の中を働かせた。しかし、その間も紗希の方からは、次から次へと『現実では彼女が口にしていない言葉』が飛んでくる。
(昇吾さん、本当にどうしたのかしら。実は片頭痛持ち? そんなことは『前世』でもなかったような……)
紗希の口にしていない言葉に、ますます昇吾は混乱した。頭痛が起きそうなほどの混乱が、昇吾の中で起きているのは事実だった。
もともと……確かに、時期を見て、昇吾自身も紗希と婚約を解消するつもりではいたのだ。
琥珀色の目に力がこもる。だが、昇吾は紗希からの申し出に、すぐさまイエスと答えられそうにない。
(冗談じゃない。紗希が、彼女が一度死んだ? それに、真琴が他人の成功を奪っているだって? おまけに『前世』? どういうことだ……)
紗希から婚約解消を申し出られた瞬間……突然昇吾は、紗希の声が二つ聞こえるようになった。
おまけに、怒涛のように伝わる紗希のもう一つの声は、彼女が恐ろしい『死に戻り』を体験し、昇吾と真琴がその原因だと語る。
自分の頭がおかしくなってしまったのか。とにかく一つでも何か確証を得たいと思い、昇吾は紗希に尋ねた。
「……私と君が自由に、お互いにもっと好きなことができるというのが……つまるところ、君の婚約解消の大きな理由というわけか? しかも、俺にとってもメリットがある、だから、早く返事をよこさないかと思うくらいには、確信している話だと?」
ぎょっとして紗希は目を見開きそうになる。微笑みを保てたのは、奇跡に近い。
つい先ほど。自分の胸の内でだけ呟いたことを、昇吾がほとんどそのまま言い当てたではないか。
「……ええ、その通りです」
昇吾は驚いた。まさか本当に、そう考えていたなんて。
彼は質問を重ねた。
「真琴と俺は幼馴染ではあるが……まさか君が『相思相愛を引き裂く悪女』と呼ばれていたなんて、初耳だな」
「……あら、いつお耳に入りましたの?」
紗希はますます驚いてしまった。昇吾に対し、真琴がらみで紗希に立てられた悪い噂は、出来るだけ耳に入らないように苦労していたというのに。
昇吾も昇吾で、困惑していた。紗希が真琴がらみの噂を自分に伝わらないよう立ち回っていたなんて、まるで気が付いていなかったのだ。
昇吾は額に指を添えて軽く顔を左右に振る。
「……その、繰り返すが、君は独り言が多い人間ではないよ、な?」
「もちろんです。どうなさったのです? 先ほどから、独り言とは?」
深いため息が部屋に響いた。昇吾のため息だ。
彼には、自分の身に起きていることが、何一つ分からなかった。
「……
「はい?」
続いた一言に、紗希の微笑みは真顔に変えられてしまう。
「|婚約解消は、保留させてほしいんだ《》」
思わず紗希の口から「は?」という低い声が漏れた。