ことさら殊勝に見えるよう目を伏せ、紗希は伸ばした髪を一房、右耳にかける。
「家同士の都合とはいえ、昇吾さまの数年を奪ってしまったこと、申し訳なく思います。私も昇吾さまのお力になれる存在を目指そうと苦心してまいりましたが……真琴さんには届かないと痛感し、此度の申し出に至りました」
紗希は口では説明をしながら、内心では今日までの自身の戦いに思いを馳せていた。
死に戻った紗希は執事の和香の言葉から、自分が五年前、婚約解消により人生を狂わされる前。まだ二十一歳の大学生に戻ったことを、はっきりと確信していた。
そこで彼女は二つの目標をたてた。
一つ。華崎真琴と青木昇吾には近づかない。
紗希と昇吾の婚約は、もともと蘇我家と青木家という二つの家のためのものだ。
青木家は金融や製薬関係に広く手を伸ばしているが、蘇我家が得意とする不動産業には二人が婚約した当時は乗り出していなかった。
ゆくゆくは、青木家の傘下に入るような形で、両家は強い結びつきを得るはずだった。
しかし。いくら契約上の結婚とは言え、夫婦仲が良いに越したことはない。
前世でも紗希は、昇吾のことが好きだった。今でも愛していると言いきれる。
だが昇吾は、そうではない。年上の幼馴染である華崎真琴という女性を、彼は常に心のどこかに置いていた。それは公然の秘密でもある。
(もっと遅い時期に華崎真琴が海外に行けばよかったのに……そうしたら、私は『相思相愛を引き裂く悪女』なんて呼ばれなくて済んだものを)
二つの家が婚約を結ぼうとしたとき、ちょうど華崎真琴は海外の大学へ留学中。
その間に話し合いが進み、めでたく紗希と昇吾の婚約が成立したのが、紗希が十七歳、省吾は二十五歳を迎えた年だった。
今から数えて九年前の出来事で、どう考えても、紗希が死に戻るより前の話である。
だから残念ながら紗希は今の人生でも、世間的には愛し合う二人を引き裂く悪女のままだ。
このような話題。世間一般の関心を買うにも十分だろう。
SNSが大いに発達した今、人の口に戸は建てられない。
(だからこそ私は、婚約当初から四年間もの間、昇吾さんとの未来に舞い上がり絶対に結婚すると付きまとってきた過去を、消し去ることはできない……。急に心が冷めた姿を見せては、周囲に不審に思われてしまう……)
そこで三年かけ、紗希は細心の注意を払いながら、少しずつ、すこしずつ、昇吾との距離を置いてきた。するとまるで『悪役がいないのなら』と言わんばかりに華崎真琴が昇吾に接触する回数が増えだしたのだ。
彼女は留学先から舞い戻り、今は昇吾の会社で人事部門の部門長という、他に類を見ないようなキャリアウーマンとして活躍している。
紗希が覚えている限り、前世の彼女は平凡なOLだったはずだ。だが、これも自身が気持ちを変えたが故の変化だと紗希は受け入れた。
二人が結婚すれば、青木財閥はますます安泰となるだろう、というのが周囲の評価。それこそ、紗希が求めているものそのものだった。
そこで、紗希はもう一つ。
『たとえ婚約破棄の時期が早まっても、自力で生き抜く力を身に着ける』という目標も掲げた。
今は幼少期から馴染みのある不動産関係の外資系企業へ自力で入社し、ホームステージングのプロになるべく研鑽を積んでいる。
ホームステージングは、家具や装飾品の配置を通じ、物件の魅力を引き出す仕事だ。
まだまだ国内では需要が少ないが、これから成長が見込めると紗希は考えている。
それから、インターネット上での広告収入も、紗希の大きな味方だ。
特に、中学時代の同級生にしてトップユーチューバーの
紗希は死に戻る前、刹那的な生き方を重視していた莉々果に影響されて、不必要なお金を使ったことを自覚した。特に昇吾との関係が決定的にこじれる五年間は、莉々果に言われるがままに、彼女にお金を渡していたところがある。
二人の再会は二十歳の同窓会だった。
どうせ出会うなら、より良い形で出会おう。
紗希は彼女に対し、ビジネスパートナーとして接触した。彼女にライフスタイル系のサブチャンネルを作ってもらい、ホームステージングの認知度を高めたり、家具配置のコツを配信したり、宣伝を依頼したいと持ち掛けたのだ。
思いがけず莉々果の反応は上々。
それから三年をかけて、二人は親友と呼んでよいほどの関係になっている。
(これで婚約解除が進めば、私も昇吾さんも自由……お互いにもっと好きなことができるようになるし、早く返事をくれないかしら……)
その時だ。
「すまない、紗希……さん」
と、昇吾が、まるで酷い片頭痛の最中みたいなしかめ面で話しかけてきた。