五月を迎えた都内の気温は、三十度を目指すかのように上昇を続けていた。
彼女はただひたすらに一つのことを心に念じ、
「昇吾さま、お時間を頂戴しまして、誠に申し訳ございません」
「手短にしてもらえないか? 真琴と……次の出張の打ち合わせがあるんだ」
昇吾は視線を隣室に続くドアに放つ。ドアが一瞬だけ、緩やかに動くのが見えた。誰かが覗き見していたらしい。
その小粋に乱れた髪は、隣室の真琴さんのせいかしら?
邪推しつつ、紗希は素早く頷いた。
「もちろんにございます」
紗希は胸の内に走った、わずかな『恋心』に起因する痛みを無視した。
この三年間、必死に用意してきたすべてが、今ここで決着するのだから。
(もうすぐ、私は自由を手に入れる……そしてなにより、この『物語』で生き残るのよ!)
やり直し、あるいは、タイムリープ。
もしくは……小説の書き直し。
蘇我紗希は『前世』の痛烈な失敗の後、やり直すチャンスを手にした。
今日の服は、自身の給料で買った一流メゾンのネイビー色のワンピースと、お気に入りの靴。どちらも、死に戻る前の紗希は、その価値を知らなかった逸品だ。
自身で手に入れた鎧を身にまとい、紗希は昇吾に正面から戦いを挑む。
「青木昇吾様。今日は、わたくしとの婚約解消をお願いしたく、この場に参りました」
何度も練習した一言を、紗希は告げる。そして胸の内で、こう言い添えた。
(さようなら、たとえ死んでも、愛した人……)
高らかに宣言した紗希を昇吾が、驚いた顔で見つめ返す。
「……なんだって?」
彼の声は驚きに包まれ、大きく震えているように聞こえてならなかった。
見開かれた琥珀色の目には、微笑みを張り付けた紗希が映り込んでいる。その揺れ動く色彩につられて動揺しないように、紗希は気を張った。
(落ち着いて、紗希。慎重に……)
ティーカップを落したあの日から、三年。
一度死んだことで、紗希は自分がいかに、わがままで横暴で、自分がこの世の中心だと思い込んだ独りよがりな女だったのかを思い知った。真琴が犯したと思われる罪について、家族に紗希は十分に訴えたつもりだったが、紗希は真琴の決定的な証拠を一つも掴んでいなかった。前世の紗希はとにかく、真琴のやることなすことにケチをつけ、不条理に怒りをぶちまけるのが仕事だった。役目が物語の『悪女』だったから、当然かもしれない。
だが、一度被った泥を、みすみす、もう一度被るつもりは無い。
(せっかくやり直せるのなら、誰かを幸せにするための物語の悪役として死ぬなんて、映画の中でもない限りごめんだわ……)
はっきりと胸の内で言いきり、紗希は眼前の男が出す答えを待つ。
「……そうか、ああ、ええと、なるほど。婚約解消か」
どこか戸惑ったように呟く昇吾の姿は、青木財閥の未来を担う男だとは、到底思えないほど狼狽していた。
青木家は金融業から身をたて、製薬や運送、古美術品など、あらゆる分野にすそ野を広げている財閥ともいうべき家だ。
一般家庭であっても、少し室内の物品を確かめれば、青木家につながる企業の品が一つ二つは見つかるだろう。それほどの手広さを誇っている。
昇吾はつい先ほどまで、その王国の主らしく、ダークネイビーのスーツに身を包み、貴族のような優雅さでソファに腰かけていた。
三十四歳を迎えた彼の彫りの深い顔立ちは、男らしさと品の良さを両立させている。薄い唇は僅かに笑みを浮かべ、何を考えているか分からない瞳が紗希を見透かすようにのぞき込むのが常だった。
昇吾は青木家の本家の御曹司。時代が時代なら、若君として大勢の注目を集めていただろう。
しかし生まれ育ち以上に、彼は自らの才能により注目を集めていた。何しろ大学卒業後、数年でただでさえ手広かった青木産業の商業圏を『帝国』と呼ばれるほどの範囲にまで広げたのだから。
彼は財閥が関与する企業全体にかかる巨大な決定権を有しており、その辣腕を持って数々の事業を成功させてきた若きカリスマ。テレビや雑誌はもちろん、彼の働きぶりを追う本やSNSなど、世間からの注目度も高い。
そのような優秀な人間。おまけに紗希から見て八歳も年上の彼に、紗希は一度たりとも勝てたことはない。
そんな昇吾が、どういうわけか、紗希の言葉に動揺している。
それも、彼にとっては、願ってもないはずの婚約解消の申し出に対して。
紗希は揺れ動く彼の琥珀色の瞳と視線を合わせた瞬間、自分の胸がドキリと高鳴るのを実感した。
(どうして私はこうも、貴方に惹かれてしまうのかしら。この『物語』に必要だから? でも、一度は、貴方に焦がれるあまり、死んだようなものなのに……)
だが今は、胸のときめきを振り切るほかない。
最愛の彼のため、そして自分自身の未来のため、紗希には婚約解消が必要だった。