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元悪女は沈黙を選びたい ~婚約解消したいのに、彼に心の声が筒抜けです~
六角 橙
恋愛現代恋愛
2024年07月09日
公開日
62,696文字
連載中
幼少期から婚約を結んできた青木 昇吾(あおき しょうご)と蘇我 紗希(そが さき)。

それなのに「あんな『悪女』との婚約なんて、明日でおさらばだ。」だなんて。


「どうしてよ、昇吾さん……私はあなたの、あなたの……」

あなたの、たった一人の、婚約者だったはずなのに。


息を切らしながら走っていた紗希は、あっけなく地面に倒れる。でも触れたのは硬い地面ではなく、どこまでも白い空間?!

そして目の前に現れたのは……紗希が1番よく知っている、目を背けたくなるバッドエンドな物語。。

妹には見放され父には責められ、義理の母には失望される。婚約者も自分を信じてはくれない。

そんな深い絶望の中、紗希の生涯は幕を閉じたのだ。


何もかも見たくなくて、両眼を閉じる。

「もしも来世があるなら……もう二度と、悪役になんてならないわ。もっと、もっと周りを大切に……そう! それこそ、お母様のように素敵な人になって……! なって……!!」


目を見開いた後、目の前に広がった光景は5年前の世界で ──


苦い前世の記憶を維持したまま、恋愛をやり直す機会を得た紗希。

一度死んだことで強すぎる執着により上手くいかなかったこと。自分がいかにわがままで横暴で、独りよがりな女だったのかを思い知った。

平穏な未来のためにも“この物語”では、青木昇吾との婚約を解消しよう。例えどれほど、彼を愛していたとしても……。


そう強く誓い、満を持して昇吾に婚約解消を申し込むも、まさかの断られて……!?

前世や予想とは違う展開に戸惑う紗希。
しかし、戸惑っていたのは紗希だけではなかった ──


それぞれの思惑が交錯する中で奮闘するものの
、前回死んでしまった日時は刻一刻と迫るばかり。

果たして元悪女・紗希は自ら運命を切り開き、ハッピーエンドを迎えられるのか?!

プロローグ

 女が一人、息を切らしながら、ススキに覆われた河原を走っていた。しかし高いヒールを履いた彼女の足はもつれ、あっけなく地面に倒れる。元は相当なハイブランド品だったろうボロボロのワンピースが、耐えかねた様子で悲鳴を上げて裂けた。

女のやつれた右腕からは、ダラダラと血が流れ落ちている。太い血管が切られたのか、血が止まる気配はなかった。

 細い指が、必死にポケットから取り出したスマートフォンの画面をタップする。だが、当の昔に充電が切れていたことを理解する他なく、彼女は怒りに震える左手で端末を川へ投げ込んだ。水音をたて、スマートフォンは川底へ沈んでいく。


(どうして……どうして!)


 女……蘇我紗希そがさきは、胸の内で叫んだ。

 痛い。苦しい。寒い。なんて惨めなの。

 それもこれも。あの青木昇吾あおきしょうごが、自分を振り向いてくれなかったから!


「どうしてよ、昇吾さん……私はあなたの、あなたの……」


 あなたの、たった一人の、婚約者だったはずなのに。

 紗希は震えながら、顔を伏せる。

ただ昇吾に愛してもらいたかった。亡くなった母に代わり、蘇我家を守るのは自分だと立つ自分と、未来を見てほしかった。

 だが昇吾は紗希を信じなかった。彼が信じるのは、自身の愛する華崎真琴だけ……。


「あんな女。あんな、あんなやつ……!」


 絶望にいっぱいになった紗希の頭の中に、熱い何かがこみ上げてきた。

 焼けつくような痛みに、紗希は呻く。


「痛いっ、いたいぃい……!」


 周囲が白く塗り替えられていく。

 あまりに激しい痛みに、とうとう紗希はその場に倒れ込む。硬い地面に、頬が触れることはなかった。濡れた草原のような柔らかなものが、頬を撫でていく。

紗希が目を開けると、そこはどこまでも白い空間だった。

上下左右、白い霧が続く。

 しばらく呆然とあたりを見ていた紗希は、何とか立ち上がる。不思議と、身体の痛みはなく、どこか心も安らかだった。

はっ、として右腕を見るが、血が流れた痕跡はおろか、跡すらない。


「……天国、かしら」


 呟きながらも、紗希は自分が行くなら『地獄』だろうと考えていた。

 ゆっくりと紗希は前に進んでいく。すると……眼前に、文字が現れた。




===

 華崎真琴はなさきまことは、蘇我家という名家に仕える執事の家に生まれた。

===




 驚いて紗希は足を止める。すると、文字はそこに浮かび上がったまま停止した。

 何が起きたのかしら。紗希が再び足を進めると、文字が生き物のように追いかけてくる。

 それは。紗希も知っている……物語だった。

 紗希という令嬢にいじめられる華崎真琴という少女が、やがて青木昇吾なる大企業のトップに見初められ、幸せになっていく物語。

 物語の陰で、紗希はボロボロになって朽ち果てていく……。




===

「真琴。君を愛している……」

「私もよ、昇吾。でも、そうだとしても……」

===




 小説の中とはいえ、次々と繰り広げられる見せつけを、紗希はどうにもできずに見ていた。

 ボロボロになった紗希をさらに痛めつけるように、その光景は、幾度も、いくども、描かれる。




===

「紗希については気にするな。俺がどうにでもしてやる」

「やめて! 紗希さんは、蘇我家のお嬢様なのよ? 私のお母様は、その執事として仕えている身なの。何度も伝えたでしょう……?」

 柔らかな茶色い髪の向こう。真琴が目を伏せて言う。

 小柄な彼女の背に、俺は腕を強く回した。彼女を守りたい……あんな『悪女』との婚約なんて、明日でおさらばだ。

 俺は、そうするべきだったんだ。もっと早く、もっと、もっと、ずっと前に。

「そうよ、昇吾。その通りなの……」

 真琴が微笑んだ。諦めるために。そんなことさせない。

 俺は強引に唇を重ねた。世界でただ一人の恋人と……口づけを交わした。

===




 紗希は足が棒のように疲れ果てても、歩くのをやめられなかった。

昇吾と紗希は、幼少期から婚約を結んできた仲。しかし昇吾は幼馴染でもある華崎真琴を愛し続けており、ついには紗希との婚約破棄を宣言した。

 真琴の方が仕事にも熱心で、優しい。何より可憐で、守りたくなる人間そのもの。

口うるさくツンケンとし、まさしくお嬢様として育った紗希とは大違いだと、比べられ続けてきた。

思わず紗希は、声をあげた。


「違うわ! 真琴さんは要領がいいのよ……仕事ができるんじゃなくて、相手にとって都合が良い人間として振る舞うのが得意で。そうして、男性たちから仕事を奪っていたのよ! 仕事だけならまだしも、うまくいったという事実だけを奪っていたのよ!」


 文章に向かって叫んだところで、誰が聞いてくれるわけでもない。あまりにも、あまりにも虚しくて、紗希の両目から涙が零れ落ちた。


 紗希が真琴を敵視したのは、昇吾が彼女を愛しているから、というだけではない。


 真琴には以前から、不気味なところがあったからだ。


相手、特に男性に『最初からそうすべきだった』と信じ込ませ、あっという間に営業成績や社内改革の実績を真琴のものとして差し出すように、仕向ける。

周囲で『それは違う』と言い出す人間がいたとしても、どういうわけか、その人間は姿を消したり、人事で降格されたり。

真琴が目を付けた男性は、それまでどれほど勤務態度や日常生活に問題がなくとも、様子がおかしくなっていくのだ。

 そんなの、何か裏があるに決まっている。

愛する昇吾が真琴に騙されているようで、紗希は絶対に彼女から昇吾を救い出すのだと決めた。自分で動かせる範囲の金を使って探偵を雇ったり、家族を通じて情報を得ようとしたり、紗希は必死に動いた。

しかし。真琴と昇吾の間を邪魔し続けた紗希の結末は……どうしようもない、今だ。


「どうせお姉さまは、真琴さんに嫉妬なさっているのでしょう? 青木様は、何をしようと、振り向くことはないわ」


 妹の明音に言い放たれた言葉。


「お前はどうして、明音のように蘇我家のことを考えられないんだ」


 父親に責められた日々。


「……あなたには失望しました、紗希。真琴さんのためにも、もっと早く、婚約を解消すべきだった」


 義理の母親からの、虚ろな眼差し。

 そして昇吾は一度も、こちらを見なかった。

 家族も紗希を、信じなかった。

 真琴こそが、この世界の正義だった。


 紗希の足音が、真っ白な空間にむなしく響く。



===

 数日後。蘇我紗希の遺体が発見されたと、省吾と真琴のもとに連絡があった。

===



 眼前に突如として浮かんだ一行に、紗希は心の底から笑いたい気持ちになった。なるだけで、笑みさえ浮かばない。

たったの一行で、紗希の生涯は幕を閉じる。物語の中なのだ、そんなものかもしれない。

 紗希はこの一行を前に、心の底から思った。


「もしも来世があるなら……もう二度と、悪役になんてならないわ。もっと、もっと周りを大切に……そう! それこそ、お母様のように素敵な人になって……! なって……!!」

 風が吹き抜ける。


 二人のその後など、必要ない。紗希にはもう、未来はない。

 何もかも、見たくない。倒れ込んだ彼女は両眼を閉じる。

 ひどく疲れ切った気分だった。自分が本当に物語の中の悪役なら、役目が終わったのだから、これできっと一人きりになれるはず。

 眠い。

 眠たくて、ねむたくて、たまらない。


(昇吾さん……お願い……一度でいいから、わたしに……わらって……)


 紗希は願いを最後まで言い切ることなく、両眼を閉じる。


 突如、指先に暖かくなめらかな、ティーカップの質感が感じられた。


 紗希は目を見開いた後。目の前の光景が信じられず、思わずカップを取り落とす。がちゃんっ、という音が、室内に響いた。


「お嬢様、いかがなさいましたか?」 


 そんな先に声をかけたのは、執事を務める華崎和香……。かけた声の内容とは裏腹に、彼女は慌てた様子でカップを手に取り、割れていないかを確かめる。

まるで……紗希のことはどうでもいいような振る舞いだ。

 以前の紗希なら、そんな和香に「わたくしを心配するのが先ではなくて!?」と叱責をしていただろう。

 だが今の紗希は、状況を把握することに必死だった。

 零れた紅茶の香りに、確かになじみがある。

 上品で甘みのある香りをもつ、セカンドフラッシュのダージリン。一匙で何千円とする高級な茶葉をたっぷりと使い、契約牧場から取り寄せたミルクを注ぐのが、紗希が好む淹れ方だ。

 黙ったままの紗希を見てか、様子をうかがう和香と視線が合った。


「今日は何月何日かしら?」


 出来る限り声が大きくならないよう、注意して紗希は問いかけた。


「……本日は五月十日。時刻は午後十五時二十三分にございます」

「ごめんなさい。何年の何月かまで聞いても良いかしら」

「……令和元年の、五月十日でございます」

「そう。そうなの、ありがとう」


 紗希は驚愕に震える。あの河原で倒れ込んだ日時から考えると……およそ五年前に紗希はいた。

 紗希は席を立つ。


「ごめんなさい。友人の莉々果と会う約束を思い出して、思わずカップを落してしまったわ。カップが割れているようならお父様に報告いただいても結構よ」

「え、あの、お嬢様……」

「気にしないで頂戴。そうそう、それから、昇吾さん……いえ。青木様から連絡が来たら、まずは貴女が受け答えをしてくださる? わたくし、いくら婚約者とはいえ、青木様の都合も考えずにはしゃぎまわっていたわ」


 微笑を浮かべる紗希に、和香は黙りこくったまま、信じられないものを見るような視線を送ってきた。そんな彼女の様子に、妙に冷静な気持ちで紗希は納得する。


(そうか……そういうことだったのね……)


 和香は、代々蘇我家に仕えるだ。

 そして。青木昇吾と愛を育み、皆から祝福を受けた、華崎真琴の義理の母親でもある。

 そんな人物の前で、紗希は真琴のことを貶め、昇吾との結婚を押し進めたのだ。いくら何でも、紗希を嫌うのに十分な理由となるだろう。

 家族にしてもそうだ。圧倒的な財力と権力、そして人脈を有する青木家のトップに煙たがられる紗希は、家の荷物だったに違いない。


 理解したとき。紗希は、強く誓った。


 とにかく。私は……この物語では、華崎真琴に関わらない。

 そして青木昇吾と婚約を解消しよう。

 例えどれほど、彼を愛していたとしても……。


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