じりじりと、そのバケモノはさらに距離を詰める。
「大人しく生気を吸わせるのよぉ」
そのバケモノ、どうやら人の言葉を話せるようだ。……それなら異世界でありながら、俺が聖女と言葉を交わせるのもおかしいかもしれないが、一旦はいいだろう。
「はぁ……はぁ……魔族……っ」
息を切らしながら、目の前の聖女は言った。その言葉に反応し、バケモノが振り返る。そいつ、正面から見ると、顔は人間だった。ピンク色のショートヘアーをしており──結構可愛い。背中に小さな黒い翼、細長い黒い尻尾が生えていることを除けば、身体も人間に近い。露出度は多く、黒い胸当て、腰下から伸びている黒いタイツのようなもの以外ほぼ肌色だ。
「あれー? おかしいわぁ、勇者らしき気配を感じたのだけど……でも、貴方達も初めて感じる生気してるわねぇ、魔族にだってここまで強いの中々いないわよっ」
ねっとりとした声で、そいつは言った。狙いを俺達にするように、こちらに近づいてくる。
とはいえ、俺に何ができるのか分からない。なにか術を尋ねようと、聖女の肩に手を乗せると──彼女は肩を大きく震わせていた。横から顔を見ると、唇を噛み締めている。
「リコ様! お戻りになられましたか! そ、それに、その方がもしや!!」
そんな時、先程まで魔物に詰め寄られていた人が叫んだ。神父の格好をしている。
その声にハッとして、聖女──おそらくリコが彼女の名だろう──リコは、持っていた杖を魔物に向けた。
「抵抗するのかしらん? 無駄だと思うけどねぇ。だって貴方、生気は感じても、魔力は全然感じないんだからっ」
しかし、魔物がひるむ様子はない。どんどん、こちらに距離を近づけている。
「誰が……お前ごときに……っ!」
リコは、声に怒りを滲ませる。
そして、杖の先が、ピカって光ったかと思うと──。
光の玉が、魔物に向かっていく。
「魔法──」
俺は小さく呟く。そう、形容していいだろう。
その光の玉は風前の灯火のように小さく……子供が投げたボールのように、遅かった。
ただ、だからこそ、威圧感があるようにも見える。
そして光の玉がこつんと、魔物に当たる。
すると──。
どれだけ経っても、何も起きなかった。魔物は何事もなかったかのように、距離を詰めてくる。
「……は?」
「はぁ……はぁ……やっぱり、今のわたしじゃ……」
全力をぶつけたように、リコは息を切らしていた。
「……おいリコとやら。まさかお前、弱いのか?」
「お前失礼。……まだ、見習いだから……」
「さっきからやたらと見習いを免罪符にしてるな! なら、どうする! このままじゃ生気とやらを吸われるんだろ!?」
俺はどこか、聖女という役職を過信していたのかもしれない。なんとなく、ゲームとかだと強そうだし──いや、こういうのも、俺の中にある偏見や常識が生み出した偶像か。
身の危険を感じ、額から冷や汗が垂れる。
「貴方を勇者様と信じ、これを授けます!」
そんな時、何かがこちらに投げられた。リコの名を呼んだ神父からだった。それは俺の近くの地面に落ちると、重厚感を示すように、鈍い音を立てた。
「剣……?」
俺は地面に屈みながら、その剣のようなものを眺める。全体が銅らしきもので覆われているが、ほとんどが錆びついている。拾おうとするが──両手で持つのがやっとなくらい、重かった。
「それは、エーテルの鍵」
やっとのことで両手で持って立ち上がると、リコは言った。
「エーテルの鍵……?」
「お前が本当に勇者だというのなら──使いこなせるはず」
「なるほど──ってか召喚したのはお前だ。仮に俺が勇者じゃないなら、お前は何を召喚したんだよ」
「……ヘンタイ」
こいつ──まぁ、色々思うところはあるが、今は目の前だ。俺は一歩出て、魔物と対峙する。
「おもしろいわぁ。貴方から特別な力は感じないけれど──もし勇者に殺されるのなら、本望よぉ」
この魔物の方が変態だと思った。
俺は足腰に力を入れて、剣を握りしめる。この重量感──持ってるのがやっとだ。それこそ格好いい勇者らしく、振り回せるビジョンなど見えない。
「どうしたのぉ? 足が震えているよぉ?」
魔物がそう言いながら、さらに距離を詰めてくる。気づけば、この剣を伸ばせば届く距離まできていた。しかし、突きつけることも、大きく振りかぶることもできない。
「いいのかお前。このままじゃ、勇者どころか、わたしの唇を奪っただけのヘンタイで終わる……」
「だからその俺を召喚したのはお前だからなっ」
しかも俺は唇を奪われた方だ。こいつのミスで湖に落とされなければ、人工呼吸は必要なかっただろ。
「……やはり、勇者ではないようねぇ」
さらに距離を近づけた魔物は、顔全面に、あからさまにガッカリとした表情を刻んだ。
「く……そ……ッ!」
こんなところで、終われない。自由に生きると決めたのに、まだハーレムどころか、変人聖女に振り回されただけだ。
全神経を、腕に集中させる。すると、剣が──静かに、上にあがっていく。それだけ、腕の筋肉が悲鳴をあげた。
魔物との距離は既に至近距離──吐息が触れそうだ。俺は叫びながら──腕を振り下ろす。
しかし……。
「んふっ、ニンゲン風情が扱うエーテルの鍵は、ナマクラにすぎない。そう、勇者でなければ、ね」
俺が全身全霊をかけて振るった剣は、簡単に無効化された。女の子のような、しなやかな指で受け止められている。
「あーでも、貴方、本当に生気で漲っているわぁ。美味しそうよぉ、今すぐ食べてあげるわぁ」
魔物にそう言われると、何故だか嫌な感じはしなかった。
「……お前、やっぱり、ヘンタイ」
鼻の下でも伸びていたのか、斜め後ろのリコの視線が突き刺さる。だが、いい。俺は今、この魔物に食べられてもいい。
「……インキュバスに生気を吸われた人間は、文字通り生きる気力を吸いつくされて廃人も同然になるのに」
「それを先に言え!!」
時すでに遅し。万事休す。
魔物──インキュバス?の顔が、俺の顔に近づいてくる。簡単に剣も奪われ、地面に投げ捨てられた。
背筋が凍る感覚がする。リコの言葉通り廃人になれば──ハーレムは築けない。
村にも、緊張感が走っているようだ。俺に剣──エーテルの鍵とやらを渡してくれた神父が、遠目に絶望しているような表情をしている。
ほうき星の妖精が、不安そうにあちこちを無軌道に旋回している。
「んふっ」
インキュバスが、艶やかな声を漏らしたかと思うと──すぐに唇を塞がれた。
(生気を……っ、吸われる……っ)
本能的に、俺はそう思う。
そんな時──一陣の風が吹いた。激しく旋回する、妖精が引き起こしたものに思えた。
すると……横目に、それはなんとも絶景が広がった。リコの修道服がわさっと巻き上がり──ピンク色の下着が、顔を出した。
(これは……)
俺は思う。
リコのパンツ──俺を窒息死させたパンツに似ている。
するとあの時の感覚が、全身に広がる。
俺は決して、リコとかいう変人聖女が言うような変態ではない。
だが、俺は死して尚──いや、死を経験したからなのか。
今、ぷるんとした唇に触れているよりも、断固として、とてつもない興奮をリコのパンツに感じている。
パンツで死した俺に──パンツに対する特殊な性癖が──芽生えていた。
全身の血液が滾る。熱く沸騰するように、体を駆け巡る。
なるほど。この感覚は……。
俺は決して、変態などではない。恋愛などにうつつを抜かすこともなく、勉学だけに、父親だけに従ってきた。
そんな俺でも、知らなかった。
人は興奮すると──本当に、鼻血が出ることを。
「ふっ──ぎゃぁあああぁああ! 何故、どうしてなのん!?」
俺の吹きだした鼻血を浴びたインキュバスが、慌てて距離を取る。苦痛に満ちた表情を刻みながら……。
「まさか、勇者の血──本当に、貴方は、勇者なのぉ!?」
よく分からないが、俺の血がどうやら弱点らしい。
「ふっ、その通りだ。最初から狙いは、これだったということだ」
未だ鼻血をまき散らせながら、俺は鼻を鳴らした。さらに血液が飛び散る。
「えぇ……」
隣のリコはドン引きしていた。だが、こいつのパンツのお陰で助かった。俺は心の中で礼を言う。
「なる……ほど、流石は勇者ねぇ……、あぁ、でも……本望よぉ……」
インキュバスの体に異変が生じる。全身の至るところが灰に変わり、地面に落ちていく。それはまるで体が溶けるようだった。
そして、それから数十秒も経たないうちに……インキュバスの体は全て灰となり、地面に消えていった。
一応は……一難は去ったようだ。
「……やっぱりヘンタイ。わたしの下着を見て、気持ち悪い顔してた。鼻から血を吹いたのも、もしかして……」
リコは修道服を両手で抑えながら、俺を睨んでいた。リコのパンツのお陰で倒せたというのに何を気にしているのか──というのは流石に驕りか。
そんな中、まばらな足音が近づいてきた。エーテルの鍵を俺に渡した神父らしき人を先頭に、多くの村人が集まってきた。
「やはり、貴方様が、勇者……!」
神父は俺の方まで来て早々、敬虔な信徒のように、ひれ伏す勢いで膝を折った。すぐ後ろの村民達も、それに続く。
「ふっ、そうだ」
鼻血は止まらないが、こんな経験初めてで、気持ち良かった。俺は鼻で笑い、胸を張る。そんな俺に対して、リコはため息をついたが……まぁいいだろう。
(これで俺の好感度は急上昇。村民の女性は全員俺に──)
こじらせているのは分かりつつも、素直に期待してしまう。
そんな、不遜な妄想が頭をよぎった瞬間──。
「あ……あれ……?」
眩暈がして、視界が揺れた。焦点が定まらず、景色が霞む。
なるほど。
これは──未だ止まらぬ鼻血による、貧血だ。
俺がそう、理解した瞬間──意識が途絶えた。