女の子のパンツに溺れ死んだときのような息苦しさを感じながら、俺の意識はゆっくりと呼吸を始めた。耳朶を叩く、水の音。自然を感じる匂い。
しかし、あの時と違うのは──。
顔に重量感はなく、アメノに口付けをされたように、唇に柔らかな感触がしているということ。ふぅっと息を吹きこまれ、その感触は遠のく。
「目覚めなさい、勇者よ──」
そして、頭上から女の子の声が聞こえた。透き通るような声音で、耳を撫でるような優し気な音色。そう思うとすぐに、再び唇を塞がれる。甘くて、温かい吐息が吹きこまれる。
(なんだ、これは……)
アメノのときもそうだが──いや、死んだときもか。俺は何やら、いきなり女の子と触れ合う機会を得た。短時間で、二人の女の子とキスをしている。アメノを女の子と形容していいかは不明だが。
「勇者──これなら」
キスの感触に耽溺しそうになる中、意識も徐々に覚醒していく。薄っすらと開かれる目から、銀色の髪の、端麗な少女の顔が見える。すぐに、顔が近づいて……小さな唇が俺の唇に触れる。吐息を吹き込まれる。
なるほど。
俺はどうやら、人工呼吸をされているらしい。意識を取り戻した今、それは口付けかもしれないが。とにかく、心地いい。
「このままでは──わたしのコケンに関わります」
そんな声が聞こえたかと思うと。
「ふぅう゛う゛う゛うぅうう゛うぅう゛うッ!」
その小さな唇から吐き出されたとは思えない──肺を突き破られんばかりの爆風が流れ込んできた! 一瞬、気を飛ばされそうになったくらいだ! 心臓を鷲掴みにされたように、呼吸を奪われ、思わず飛び起きる。
「あ、目覚めた」
「ケホッ、ケホッ……! なんだ今のは……? 君の人工呼吸か……?」
「そうです。それより、謝っておきます、勇者。わたしが見習いなばかり、召喚の座標がズレてしまい……湖に」
「湖……?」
よくみると、俺の背後には湖があった。
なるほど。
俺は湖に溺れて、人工呼吸されることになったらしい。
さらに状況を把握しようと、辺りを見渡す。近くに木々が茂った森が見える。
いや、それより──。
「いやそれにしても! なんだあの肺活量は! 人工呼吸で死ぬところだったぞ!」
「人工呼吸で死ぬ……? 人工呼吸とは、救命活動です。もしかして、貴方はバカですか?」
「それは分かってる! 俺も矛盾していることは承知だ!」
アメノのキスも全身が燃えるように熱くなったが──あいつは神様だから、まぁいいとしよう。しかしこの子の人間離れしたような肺活量……この少女、人間に見えるが、やはり異世界ならば体の構造も異なるのか……?
「とにかく、勇者である貴方が目覚めてよかったです」
彼女はそう言いながら、腕で唇を何度も何度も強く擦った。普通に嫌だったらしい。傷つく。
「……勇者というのは、俺のことでいいのか?」
聞こえてきた、勇者、聖女、召喚という単語。俺に向けた言葉に聞こえるが、明白にするために訊いた。
「そうです。魔王様を倒す勇者、それがアンタです」
「それ魔王を敬っているように聞こえるが」
「わたしなりのギャグです。アンタを召喚した見習い聖女として、貴様にお近づきになるための」
「貴様!?」
「冗談です」
見習い聖女だという美少女は平坦とそう言った。確かに、聖女の単語に相応しいような黒い修道服を身に着けており、長い杖を持っている。ただ変人ではありそうだ。
「俺が勇者で、君に召喚されたということは分かったが……」
俺はそう言いながら、静かに体を起こして立ち上がる。すると、気づいた。その美少女の目線が、動かないことを。そしてその目は、軽くにらみが利かされる。俺は、彼女の視線に合わせるように目を下にやると──。
下半身何も履いていなかった。というか、全裸だった。そして人工呼吸に対する不遜な感情も、体に現れている。
「……お前が勇者なのか、怪しくなってまいりました」
「俺の下半身を見てそう思ったなら酷い偏見だからな」
「それなら、無駄チューというもの……」
聖女は再び唇を強く腕で拭った。
「人工呼吸だぞ!? というか、お前のその召喚の座標の手違いってやつが原因なんじゃないのか?!」
「それはそれ」
「えぇ……」
この聖女、かなり変わっているな。俺も偏見ではあるのだが、聖女といえば清廉清楚淑やかというイメージだった。
と、そんな時──。ペタペタ可愛い足音が森の方から聞こえてきた。それはすぐに、正体を現す。
体長20cmくらいの桃色の球体に、桃色の楕円系の手足のようなものがついている。そして、つぶらな瞳──子供の頃、ゲームか何かで見たキャラクターに似ていた。確かあれは……。
「はぁい!」
その球体がそう言い、俺は考えるのを放棄した。
「……見習い聖女とやら、この愛くるしい生命体は?」
素直に聖女にそう訊いた。
「ほうき星の妖精です。そんなことも知らないのですか、てめえは」
「さっき召喚とやらをされたばかりなもんでね! というか聖女、お前どんどん口悪くなってるからな!」
「どうにも、勇者には思えなくて」
そう言いながら俺の顔を見た直後、聖女は視線を下げる。
「俺の下半身を見ながら言うな!」
こいつ……容姿はタイプだが、俺のハーレム計画には加わりそうになさそうだ。
「とにかく、貴方が勇者かどうであれ……一度、村へ帰りましょう。詳しいお話は、そこで」
「あぁ──いやどうであれってお前が俺を召喚したんだからな。なら勇者だろ」
「それはそれ」
なんとも調子が狂う聖女だ。いや、俺に女の子──そもそも人とのコミュニケーション能力に難があるのかもしれないが。
兎にも角にも、聖女に話を聞くしかないのも事実か。
そんなことを考えていると、聖女の背中が数m先──森の方にあった。ほうき星の妖精とやらも、聖女の隣についている。俺は小走りで、追いかけていくのだった。
森の中は、なんというか、俺の世界にもありそうな普通の森だった。木々に覆われ、静寂としているのもそうだが、生き物に出会わなかったから、特にそう思った。
「はぁい!」
ほうき星の妖精が、俺の周りを楽しそうにプカプカと飛んでいる。こういう俺の知識にない生命体が、異世界には多く存在しているのだろうか。
そんなことを考えながら、聖女についていく。彼女は後ろを振り向くことなく、黙々と歩いている。
「そういえば聖女、自己紹介を──」
俺のその言葉を遮るように、聖女は足をピタリと止める。どうしたのか尋ねると、「何やら村が騒がしい」と真剣な声音でそう言った。
耳を澄ますが、俺には何も聞こえない。
そんな中、聖女が突如として走りだす。俺の周りを回っていた妖精も、聖女と同じ方向へ猛スピードで飛んでいった。
「お、おい!」
訳が分からないが、俺はついていくしかなかった。
そして走ること数分──森を抜けた。「何やら村が騒がしい」との聖女の言葉から鑑みるに、村だろう。というか、見た感じまんま村だ。いくつか小さな民家がある中に、教会?のような神々しい建物が目立っている。
それより、異質だったのは──。
そのほうき星の妖精とやらが、何匹も空を飛んでいること。赤、青、黒、白、俺たちと一緒に居たヤツとは異なる体色をしている。
そして何より──村人らしき人達を、それまた物語の中でしか登場しないようなバケモノが、宙に浮きながら、じりじりと距離を詰めていた。
それは俺が異世界に来たことを──何よりも実感させる光景だった。