--ジェフの依頼を受けてから三日後の午後。
約束通り、ジェフが白鳥へ訪ねる日だ。
この日の百合子は、接客はともかく書き仕事にも中々集中しづらく、どうもぎこちがない。
筆を持っても、字のバランスが安定しづらい状態だが、普段通りに保てるよう努力は行っている。
(とりあえず締切前日までには、なんとか書き切ったけれど。肝心なのは、この後の本番よ。上手く渡せるかなぁ……)
初めて書く内容には、やはり未だ消えない不安は抱える。
しかし、書ける内容が櫛のこと以外何も思いつかないのは致し方ないのだろう。
手紙さえ渡してしまえば少しは気が楽になるのにと、百合子は緊張しながらジェフの来店を待っている。
待機してから数十分後……。
「いらっしゃいませ」
「どうも」
遂に、ジェフが来店した。
先日の初対面と同じように、あの和やかな笑顔を見せながら挨拶をする。
「あぁ、ジェフ様ですね。話は伺っております。彼女は今、裏にいるので呼んで参ります。少々お待ちくださいませ」
「えぇ、お願いします、あっ! もし他の優先客での作業を取り組んでいらっしゃっていたら、そちらを先にでも構いませんので」
「いえいえ、大丈夫ですよ。すぐにそちらへ参りますので。百合子さーん、ジェフ様がいらしたよ」
店主である茂の掛け声に百合子はドキッと心臓が跳ね、肩まで力が入ってしまう。
ここまで来たら、表に出ること以外の選択肢は一切ないのである。
(はわわぁ……。とうとう、この時が来ちゃった。どうしよう、ちゃんと手紙を渡さなきゃだけど……)
「おーい、百合子さん……?」
「……」
「ん? って、百合子さんや⁉︎ お客さん来てるよ! 大丈夫か?」
なかなか店の表に現れない彼女の様子を見に来た茂が駆けつけると、緊張のあまりに石の如く固まっていた。
その上、彼女の生気まで、今にも天に昇りそうなぐらい失いかけて頭が真っ白になっている。
「百合子さん……? うん? おーい? 見えているかい?」
「あ、す、すすす、すみませんっ。つ、つ、つい、きき、き、緊張で……」
茂は、微々たりとも反応しなかった顔の真正面に、手を振りながら確認する。
ようやく正気に戻れた彼女だが、未だに凝り固まって身体の動きがぎこちない。
「百合子さん、もし、ジェフ様に用を聞くのが無理だったら……」
「い、いえ! 大丈夫です! ちゃっ、ちゃんと渡して用を済ませてきます!」
(えぇ~……こんな状態で大丈夫なのか?)
自分の力で渡すと決めたにも関わらず、ガチガチに身体が張り詰めたままの姿。
果たして無事に用を済ませられるのかと、反対に茂はオロオロと心配している。
(とりあえず、息を整えなきゃ。ちゃんと渡して、ウィル様へ届けてもらうんだから!)
百合子は首を横に振り、意を決して表に出る前に息を深く吸い含んでから細く長く吐いての深呼吸を繰り返す。
落ち着きを取り戻し、気を取り直して裏の作業場から表へ向かう。
「いらっしゃいませ。ジェフ様、大変お待たせして申し訳ございません」
「百合子様、大丈夫ですよ。今さっき来たばっかりですし、お茶も頂いてますのでじっくりお話をしていきましょう」
「いえいえ、そんな……。私にお気遣いなんてどころか、ジェフ様を待たせる訳には……」
「良いんですよ。主人からも、百合子様には丁重に接するよう、と」
百合子は謝るものの、主人からの命令とはいえジェフの気遣いには頭が下がる一方だ。
「それで、先日頼んだ例のものは出来上がりました?」
「は、はい。こちらでございます。ただ、書く内容にはとても迷いましたが」
早速本題の流れに入り、依頼された一通の手紙を彼に渡す。
中に入っている便箋とお揃いの白い封筒には、百合の紋章が付いた赤いシーリングスタンプを施してある。
「大丈夫ですよ。主人は百合子様の手紙のことに、早く来ないかと首長く伸ばしたり、まだかと待ち遠しそうにしておりましたので」
「それなら良いのですが。ちょっと、なんだかお恥ずかしいです」
「ふふ。どんな内容であれ、貴方様の手紙に待っていることには変わりはございませんので」
百合子は、ウィルから自分の手紙を待ち侘びていると聞いて安堵をついている。
だが、異性の人に文を読まれることが初めての影響で、そのシーンを想像をすると少し頬が紅に染まってしまう。
「あっ、そうだった。あと、百合子様にお伝えをしないといけない事が……」
「はい、何でしょう?」
すると、ジェフの顔からあまり出さないであろう浮かない表情で、あの件をついに伝える。
「非常に申し訳ないのですが……」
「まさか、何か不具合なことがあったのです?」
「あの、実は明日から、主人と共に視察へ向かう為に一時的な期間だけ横海市を離れる予定なんです」
「え? そうなんですか?」
ジェフからのお知らせに、百合子は軽いショックを受ける。
だが、ここからはウィル本人からの返事がないと、櫛はいつまで経っても返してもらえないままだ。
彼女が懸念していたことを思い出すかのように、また不安が募り出す。
「一時的と言いましても、大体早ければ一ヶ月からぐらいの目処でまた戻って参りますし、行く場所も距離があるとはいえ、東皇都を中心に視察する予定ですので」
「あの……、本当に……」
「百合子様がご心配になる気持ちは、私も重々承知しております」
ウィルの抱え持つ重要な仕事だから仕方ないと分かっているとはいえ、百合子は戸惑っている。
しかし、ジェフはまだ話を続けている。
「安心してください、とまでは言えませんが、主人は必ず義理を果たす人間です。私がこのこと全てを保証致します。万が一、何かあった際は私に何かの処罰していただいても構いません」
「あっ、いや、そこまで程ではないので……。とにかく、顔をあげてください」
ジェフが頭を下げる行為に、百合子は焦って宥めた。
寧ろ彼女にとって、せっかく大事な物を拾ってくれた恩人であるが故の思いにそんなことは出来ない。
「元は落とした私が悪いのですので。けど、やはりどうしても大事な物なので、今は全部を信じるというのは難しいですが……」
前置きの言葉をつけて、百合子はジェフの誠意にこう答える。
「どんな形であれど、必ず最後にはウィル様が返してくれるのを信じますから謝ることはやめてくださいませ」
「……かしこまりました。私も主人も、約束は誓ってお守りいたします」
「私からも、返事をお待ちしております」
百合子の真剣な眼差しにジェフは固く決心した後、穏やかな笑みを浮かべた。
しかし、和やかになれたのも束の間。
「おっと! そろそろ私には次の用事がございますし、お時間もなので。私はこれで」
「はい。どうか、よろしくお願いします」
「えぇ、お任せあれ。では、失礼します」
ジェフは、お辞儀をして店を後にした。
彼を見届けた後、百合子はふぅっと吐息をつきながら店へ戻る。
(とりあえず、今日は手紙を渡すことでなんとかなった。あとは無事に届けられて、読んでいただけたら良いんだけど……)
百合子が出来ることは、ジェフが無事に主の元へ手紙を届けてくれることを、ただひたすら祈るのみ。
無事に書くことができた直筆の手紙が、ウィルの手元に届くことや手紙で何かしらの反応や返事をくれるのか、などを。
色んなことに気がかりなものが増えているが、ジェフのことを信じて、百合子は自分の仕事を再開した。