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第十話 悩み多き乙女

(はわわわぁ~! ど、どっ、どうしよう……! 櫛を返してもらう為だけに後先のことを何も考えず、必死になっていたせいだわぁ!)


 百合子は、この衝動を起こしたことで泣きそうな程、頭を抱え込んだ。

 こういう方法しか思いつかなかったとはいえど、もう既に引き受けた以上は遅かった。

 当然、先に進むしかなく、今更引き返すことも出来ない。

 オマケに、手紙を送れなかったら櫛を返してくれることはないまま、この話はあっという間に幕閉じとなってしまうのが目に見えている。

 そんな気持ちであたふたしながら、ウィル宛に書く内容を悩みに悩まされていくと刻一刻過ぎていくばかり。

 ジェフが次に来店する予定は、約束を交わしたこの日から三日後。

 時間はあまり遅くはならないはずだが、恐らく午後ぐらいだろうと勝手ながら推測を図っている。

 つまり、彼女には与えられたこの短い期間で手紙を書き切らねばならない。


(一旦落ち着こう、私。こんなことで慌ててしまっても意味ないし、余計なことを考えていたら前にも進めなくなるわ)


 なんとしてでも、百合子はポジティブな方向へ持ち堪えようと取り直していくのだが。


(んん? 待って、今……落ち着く場合? いや、違う。そんなどころじゃない……!)


「うわぁ~、しまったぁ~……! 中身以前の問題がまだ他にもあったなんて……。なんで気づかなかったんでしょう」


 もう一つ、別のものが最大の壁という物理的なものを彼女は目の当たりにしてしまった。

 それは手紙を書く内容よりも、最も重要なこと。

 発覚した「ある内容」のせいで心の悲鳴が叫びそうになり、落ち込みも深くて激しくへこむ。


(ジェフ様との会話は、たまたま仁和語で話せたから良かったの。でも、ウィル様への手紙だとそういうわけにはいかないわ)


 ウィルが仁和語を話せる保証は、全くない。

 しかし、あらかじめジェフにそのことを質問をすればと、百合子は後になって後悔してしまった。


(かといって、ジェフ様に代わって翻訳を……って、いやいや、流石にダメでしょう! ウィル様が自ら一人で読みたいはずだし、彼も他人に読まれたくない内容を書かれた時になったら……)


 最大の壁となる問題、それは相手が手紙を読む時に一番重要なのが「言語」だった。

 万が一、仁和語を読めない人の為にあるのが、世界有数の共通語として現在使われているブレス語である。


(だったら、私が彼の母国語であろうブレス語で書くしかない。それなら、大丈夫よね?)


 百合子は、教養と卒業するための単位の一環として女学校でブレス語をメインに外国語をいくつか学んではいる。

 だが、異国語を利用して自分の言葉として書く文書を作成するのが、彼女にとってこれが初めて筆を取る一筆。

 異国の人との文通経験が全くない彼女は、ひとまず、頭を抱えながら文章の内容を練り始めた。


(ただ、いくら学校で学んだとはいえど文法に自信があるわけではない。むしろ、そのブレス語で文章を書くことすら皆無だから、彼にその言葉が通じるのかどうかも分からない。でも、書ける内容があるとしたら、もう、これ以外になさそう気が……)


 この状況で、ドン底の窮地に立たされる百合子。

 しかし、彼女の文を書き進められそうな範囲内の中で手紙を纏めることしか出来ない制限に気づき、もうこれ以上覆すことは出来ない。


(でも、せっかくジェフ様がこういう機会を与えてくださった。元と辿ればウィル様が拾っていただいたお陰で櫛を返していただけるんだし、キチンと礼儀だけは……)


 ウィルという人物がどんな人であれど、自分の大事な櫛を拾ってくれた恩があるからこそ、百合子も前進が出来るようになった。


(うん、ここは深く考えることを潔く諦めよう。文章が短くてもいい。手始めに心を込めて櫛を拾って頂いたお礼からだわ!)


 百合子は、茂から初任給として貰った愛用の万年筆を手に持つ。

 万年筆の筆先は十四金の金属が施され、筆圧に応じて柔軟性がある。

 そして、舶来製品の青黒の色をした洋墨瓶に筆先ごと挿し入れ、ゆっくり吸引器で中を吸い満たす。


(今日も一回で上手く、洋墨が満タンに入ったわ)


 この瞬間が、彼女の心を落ち着かせる為の深呼吸を行うようなもの。

 万年筆の軸を元に戻し、先日失敗してしまった分の用紙上で、試し書きをしながらサラッと筆を整える。

 筆と墨に和洋は違えど、この動作は、彼女が幼少期から書道を習っていた際と同じように行う整え方の一種だ。


(どんなお方なのか、少ない情報から全く想像できないけれど先に進む為にも書かないと!)


 先ほど取り出した真っ白な最高級の洋便箋に、ブレス語の筆記書体で書き始めた。

 彼女にとって、その便箋で日常に使用する際は最も大事な時にしか使わない時だ。

 洋紙製品も舶来の中で高級品の一つ、万年筆の滑らかさを活かす為に作られた紙である。


(時間は、まだそれなりにある。しかも、明日は良いことにお店が定休日だから、ゆっくり時間を掛けて考えながら書けそうだわ)


 執事を雇えるくらいの身分である彼に対して、失礼のないよう言葉を選びながら……と。

 百合子は、自分の気持ちをありのままに乗せるよう、初めて彼に送る手紙の文章を綴る。


 --彼女の大切なものを取り戻すため、また一歩を踏み出すのである。

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