--その日の夜。
(なんだが、あの人の依頼って不思議な依頼だったなぁ……)
百合子は、自分の部屋の中にある学生時代から使っていた学習机の椅子に座っている。
毎日の出来事や読書記録代わりに付けている日記帳を、今書き終えたところだった。
顔を上向きながら、昼間に出会ったジェフとの出来事をぼんやりと振り返っていた。
(声を掛けられることが、まず滅多にないのに。しかも、お相手の方から私の手紙を出してほしいなんて、この接客業を三年にして言われたのは初めてだわ)
異国の人が客として来店することは僅かにあるものの、依頼の引き受けは多忙な時に手伝う程度。
「白鳥」では従業員の中に男性二人ほどが、異国の人……特に官僚系や貿易関係を勤めている人達を専門に担当をしている。
用件を伝えたい時に声を掛けられることはあっても百合子が対になって接客することは、ほとんど無に等しい。
「それにしても、仁和語で会話なのに異国の人と久しぶりに話すのは緊張したぁ……。慣れないと背筋がピンッと張っちゃうものだねぇ」
彼女が異国の人を話すのは、学生時代に語学科のコミュニケーションの授業時に行う担当の先生との会話以来だ。
当時、語学の担当をしていたブレス語を話す先生もジェフと同じ出身地。
彼女とジェフとの会話は、たまたま仁和語だったが、久しぶりの異国男性との会話では緊張が走ったのだろう。
『きっと、主人は貴方様からのお手紙を差し上げたら、ものすごくお喜びになりますよ』
(そもそも女性が苦手なこと以外、どんな人なのかしら? 私からの手紙をもらって、本当に喜んでくれるのかなぁ……?)
ジェフとの別れ際、彼が残す言葉に響いた百合子はウィルの外見に対し益々気になるばかりなのである。
あの日にぶつかった当時、百合子は急ぎのお使いを頼まれていたその帰りだった。
原因は、今買わないと締切に間に合わないことを言い出した先輩に当たる従業員が、大口注文を受けたからだ。
このままでは、全員共通して仕事に使う墨汁や手紙に使用する和紙が切らしてしまう。
たまたま手が空いてたのがたったの一人、百合子だけだった。
風呂敷いっぱいに入り込める分の全ての購入品を必死に抱え、精一杯出せる駆け足で走っていた。
(ぶつかった方がウィル様だったと思うけど、髪に触れた時に何か感じたような……)
櫛を落とした際、百合子の頭からほんの微かに触れられた彼の温かみ。
けれど、彼女は何も気づかないまま急いで店の方へ戻ってしまった。
今無くしてしまっている櫛がようやく百合子に気づかせ、この時を巡っているのかもしれない。
(とりあえず、思い立った内に書こう! まずはレターセットを出して書く準備をしないと)
「よいしょっと……」
書き終えた日記帳を閉じて、元の場所へ戻す。
女性が苦手な彼の姿をイメージしながら、今度は手紙を書く準備を行おうと椅子から立ち上がった。
机の上の左端にある二種類の箱の内の一つを取り出そうとする。
それは、彼女が大切にしている百合の蒔絵が描かれた大小の文箱だ。
(えーと、こういう大事なシーンに使うのが良さげな便箋と封筒はどれが良いかなぁ……? 特に初めての方へ送る文だから、失礼のないような無地のものが良いかと……。あっ、これにしよう!)
両方とも紙の保管用に用いるのだが、なぜ二種類かというと小さい方には百合子宛に届いた手紙が入っている。
彼女は、遠く離れた女学校時代に仲良く過ごしていた一部の同級生と、近況報告や季節の挨拶などの手紙を送り合っていたレターだ。
もう一つ大きい方では、新品のレターセットを保管する為に使っている。
(コレなら洋紙のものだし、万年筆でスラスラと滑りもいいから書きやすいのよね)
洋製品のものは、貿易の発展によって昔よりも手に入りやすくなったとはいえ、まだまだ手を伸ばせる程ではないぐらい高級の品。
和紙と同様、レターセットを大切に扱いたい百合子はその文箱で大事に保管をするのである。
今回は、手紙を書く為に使用する大きい方の箱から。
麻の撚り糸帯でリボン結びに閉じられた便箋と封筒がひと揃いになっているものを、丁寧に取り出す。
スッとその帯を解いて便箋を一枚取り、机の上に置く。
いよいよ筆を取って文を書くぞというときに、ふと思うことがあった。
(私が書いた手紙を仮に読んでくれたとしても、ウィル様本人から返事ってちゃんともらえるのかしら?)
「ううん。今はそんなこと考える前に、まず書かないことには何事も始まらないって。中身は気楽に考えながら直感で書き込むのが、一番良いよねぇ」
彼女の希望が少しでも見えたらと、楽観的に文章の中身のことついて甘い考えをしながら万年筆を取ろうとする。
ところが、櫛を返してくれる時の想像を浮かぼうとした際、突然異変が起きた。
--………………。
(うん? あ、アレ……? 嘘……。か、書けない……なんて、ことは……)
万年筆を持って洋墨を入れ始めようとした途端、百合子はピタッと急に手が止まってしまう。
(見ず知らずの人宛に送る手紙を書く中身って……お礼と相手からの返事を待っていること以外、どう言葉にして文章を書いたらいいのかしら……?)
アハハ……と、口から乾いた笑い声しか出てこない。
額から変な汗をかいた彼女は嫌な予感を察し、手がプルプル震えるほどかなり焦ってしまう。
能天気に彼の姿やらシチュエーションの妄想などと、繰り広げようとした矢先だ。
一瞬にして崩れ落ち、今の現状に対する不安に気づいて現実的な方へ戻る。
今更になって、彼からとんでもないものを依頼されていたことをようやく知ることに……。