「え……」
ようやく百合子が発した言葉は、たった一言のこれだけ。
(は……、はいぃーーーーーー⁉︎)
百合子は、ジェフの頼み事の内容に理解が追いつけなかったのか、無言の間が入りながら藤乃の時と同様に、思考も止まってしまった。
彼にツッコミを入れる余地もなく、彼女の頭の上に、ハテナのマークが沢山湧いてくるのも無理がない。
(いやいや、そういうことじゃなくて)
ジェフから……或いは元を辿れば、ウィルという主人からの予想外な依頼に、当然、困惑してしまう。
だが、今はそれどころではないと慌てて気を取り直し、彼女は再度、彼に質問をする。
「えっ、あ、あのっ! えーと、それはどういう意味でしょうか? なぜ、手紙なのです?」
「まぁ、ここまで来てしまいましたし、仕方ない……。その理由は、ここだけのお話ですのでくれぐれも内密にお願いしますよ」
「は、はい……。とりあえず、内緒にしますので」
正直に答えるかどうか悩むジェフだが、彼女の圧に押されてしまった。
百合子は、ジェフから主人の秘密の情報をコソッと教えてもらえることになり、面持ちで耳を澄ます。
「ウィル様にはですね……。ちょっとばかしの恥ずかしい欠点がございまして」
「恥ずかしい? 何か、苦手なことでもあるのです?」
「実は、彼、女性と話すことや触れるのが苦手なんです。一対一の応対は愚か、社交場で大勢の中でも女性との会話が入ると、無口になる一方ですし、ダンスも、なかなか、お相手様に応えることが出来ないんです。対面ではなく手紙だと、徐々に慣れていければそうでもなくなるらしいですが、それまでの時間も掛かるでしょうし、だからと言って、馴染めるのかすら怪しいところなので……」
(なるほど……。原因はウィル様自身にあって、女性との会話に馴染めないからと……)
彼から伝わるこの情報を聞いて、百合子は、彼の性格が恥ずかしがり屋なのか、それとも内気だからなのかと、色々と想像している。
そして、念を押しつつ、依頼の中身の再確認としてジェフに聞く。
「えーと……つまり、内容を簡単にいうと……ジェフ様のご主人であるウィル様に、私からの手紙をお送りすれば良いということ、ですね?」
「左様でございます。あと、もう一つお伝えしないといけないことがありまして。実は、手紙を出していただく期限も設けておりまして、今日から三日後ぐらいに、私が再度こちらへお伺いし、書いた手紙を受け取りに参ります。そして、私から主人に、その手紙をお渡しいたします。なので、その期間までに書いて欲しいのです」
「はぁ……」
ジェフ……いや正確には主人からの提案として、そう言われたものの、百合子は少し悩む。
彼の存在のことや、手紙をジェフに預かるとはいえ、ちゃんと届けてくれるのかどうか。
しかし、それ以前に手紙を届けたとしても、ちゃんと最後まで櫛を返してくれるのか、などと疑いがあり、百合子は更に色んな考えを張り巡らしている。
(けれど……どっちの選択をしても、最終的には提案している依頼を受けないといけないってことよね。いつまで経っても、ウィル様から櫛を返していただけなさそうだし……、受けるしかないんでしょう)
百合子は、意を決して、ジェフに依頼に対する回答の言葉を返す。
「わかりました。必ず、返していただけると約束を信じて、この依頼、謹んで引き受けます」
「ありがとうございます。こちらも、約束は必ずお守りいたします。これで、私も安心しました。主人も、その返事を聞いて、きっとお喜びになるでしょう」
まだ、彼女の心の中に多少のモヤモヤが拭えない気持ちがあるも、今のままでは選択肢のないと感じた。
百合子は、ここを乗り切るチャンスと信じ、彼の依頼を正式に引き受けることにした。
寧ろ、断る選択肢の方が櫛を返してくれない未来が見えている為、そうせざるを得なかったというのが、彼女の正しい判断だろう。
策士のジェフは、彼女が主人の依頼を引き受けてくれたことに、ホッと安心を得て、優しい笑みを浮かべていた。
彼にとって、きっと、主人に嬉しい報告が出来ると喜んでいるに違いないだろう。
◇ ◆ ◇
二人での話し合いを経て、ジェフを見送る時がきた。
「長々と立ち話してしまったようで、お邪魔しました」
「いえ、とんでもございません! こちらこそ、ご主人様のことで色々と迫るような感じに聴き込んでしまって、申し訳ございません」
「いやいや、百合子様のお気持ちもお察しいたします。さて……、あっ! もう、そろそろ行かないと……」
ジェフは、燕尾服の内ポケットから懐中時計を取り出して現在時刻を確かめていると、他の予定の時間に切羽詰まっていたのか、急ごうと焦っていた。
「では、よろしく、お頼みしましたよ」
「かしこまりました。また、三日後にご来店をお待ちしております。お気をつけてー!」
そう言って、彼は店を後にし、颯爽と用事のある別のお店の方へ去っていく。
百合子も、彼に、笑顔で軽く締めの挨拶とお辞儀をして見送った。
彼の姿が見えなくなると、彼女は緊張からプツンッと解放されたかのように途切れ、ふぅ〜っと、ひと息を吐く。
(はぁ〜、緊張したぁ……。慣れないことをするもんじゃなかった)
「百合子さん、大丈夫だったかい?」
茂は先程と同じ裏手で、今度は二人を邪魔をしない程度に、彼女達の会話を聞きながら上手く話せているのかを見守っていた。
「叔父様、この件も……聞いていたのですね」
「そりゃあ、異国の人が、お見えになったって聞いたからねぇ。それでなくても、普段は滅多に来店することなんてないのに、ビックリするよ」
ようやく、ここの街では見慣れてはきているものの、異国の客が現れると、どうしても身構えてしまう。
下手なやり取りをしてしまうと、デマなのにも関わらず、なんでも鉄砲で射殺されてしまうんだとか、という町人の皆が、口を揃えて伝わっている。
特に、異国の男性は所持している人が多く、何かの対応に支障あった場合が一番困ると気に掛けていたからだ。
「はい。なんとか上手く会話出来ましたし、お客様も、仁和語を話せる方でしたので」
「あぁ、それなら良かった。それにしても、仁和語を話せる異国の人は、貴重な人ね」
「そうですよね。私も、驚きましたわ」
やはり、茂も百合子と同じような感想で、ジェフの流暢な仁和語に関心を持っていた。
(ジェフ様が、物腰の柔らかそうな人だったから、なんとか、一時凌ぎで乗り切れたけど……、今度のお相手は、ウィル様だわ……)
「そいや、さっきの人、櫛を返してくれそうだとか、みたいなことを言ってたけど……」
「その件に関しては、今日は、まだ返せないと仰ってまして」
「ありゃ、そうなの?」
「えぇ、お客様のご主人がお持ちだからって」
「なるほどねぇ、それで依頼受けたってことかぁ……」
苦笑いする百合子を見て、茂は異国の人に対して、まだ心配の念が拭えない。
依頼を引き受け、百合子の櫛を返してもらうまでは、ジェフとの対応を、しばらく付き添わないといけないからだ。
「でも、私さえ、依頼を頑張れば、なんとかなりそうなので」
「そうかい? くれぐれも、無茶だけはしないようにね。何かあったら、必ず、私に相談しなさい」
「はい」
「まぁ、あとは、無事に解決出来たら良いのだが」
茂の心配性を少しでも和らげる為に、百合子は笑顔を見せて安心させるよう言葉を掛ける。
「大丈夫ですよ。彼が約束していただけた以上は信じてますし、必ず、返ってきてくれますよ」
(そう、彼の言葉に偽りなし、と。私が、そう信じたら見えてくるはずだし、絶対に約束を果たしてくれると思っているから)
しっかりと気合いを入れ直し、覚悟を決めて解決の方向へ挑む。
彼女は、まだ残りを賭けた希望に意気を入れる。
百合子の大切な櫛を返してもらう為に、一つ進歩したとはいえ、彼女の道のりは、まだまだしばらく続くのである……。