遠くの鐘楼が、日暮れと労働終了の合図である鐘を鳴らしていた。王都中で鳴り響く鐘の音が人々の時間意識を明確にさせ、まだ限られた人々の所有物でしかない歯車式の精密時計よりもしっかりと存在感を示している。
ルカ=コスマ魔法薬局でも鐘の音は聞こえ、閉店の看板はもう下りている。しかし、カウンター内で座り込んで眠る騎士キリル・ウンディーネはぴくりともしない。昼食後からかれこれ数時間寝ているが、昼寝にしては長すぎだ。
キリルは一応護衛の役目もあってエリカにひっついているはずなのに、意識さえないとはこれいかに。
連れて帰るためにも、エリカはキリルの肩を揺らして起こす。
「キーリール、起きて」
すると、キリルは寝ぼけつつも、あっという間に起きた。
「んあ? おお!? もうおやつの時間か?」
「残念、退勤時間です」
それを聞いたキリルが真顔になった。キリルが窓辺にちらりと視線を向ければ、わずかに夕日が薬局内を照らしており、薬局奥の事務室には魔法道具の照明がとうに点けられていた。
「日が沈みかけだと!? しまった、寝過ぎた!」
「私の護衛って三食昼寝付きなのねー、へー知らなかったー」
「ぐぬぬ」
エリカのちょっとした嫌味に、キリルは本気で悔しがっていた。あれほど熟睡しておきながら、まだ護衛としての矜持は残っているらしい。
薬局奥から、やりとりを聞きつけたリリアン局長がふわりと顔を覗かせる。
「エリカ、お疲れさま。今日は残らなくていいの?」
「ええ、上の当直室は鍵をかけてあります。何かあったらベルが鳴る仕組みにしていますので」
「あはは、何かって、泥棒でも入りそうなの?」
「昨今は危ないので」
「違いないわね。騎士様にしっかり守ってもらいなさい」
さっきまでぐっすり寝ていたけれど、とリリアン局長に付け加えられたキリルは、赤面した顔を両手で覆い、恥ずかしそうに俯いていた。くどいようだが、あれほど熟睡しておいて今更その態度はどうなのだろうか。
起きていれば頼りになる護衛を伴い、エリカは職場から一歩外に出ると、どこかからか香ってきた夕食の匂いに気付いた。夏とはいえ体を冷やさないためにも温かいスープ系、さっぱりとしたオニオンコンソメが代表的だろうか。塩っ辛いベーコンと野菜の煮込みにクリームや牛乳を加え、即席シチューも捨てがたい。
それは、温かな食事の記憶があれば、誰もが望むものだろうが——今、エリカの脳裏に浮かぶ女性には、その記憶があるだろうか。
アメリー・アルワイン、何かと不幸で『ノクタニアの乙女』では悪役令嬢になれかった貴族令嬢。エリカとしては、できることなら恋慕うエルノルドとくっついてもらいたいが、何せ受け身気質なアメリーは自分から動きそうにない。
(普通に考えて、高位貴族の令嬢が自分から何かしようと動くこと自体がはしたないって言われるわけだし、エルノルドが好きだとしてエルノルドから告白でもしないかぎりアメリーが積極的に行動に移すことはないでしょうね。で、あのエルノルドは今それどころじゃなくって、一つでもストッパーを用意しておかないと突っ走りかねない。だから、アメリーをどうにか動かせないか、その状況を知るためにも)
つい先日、エリカは別れ際にエルノルドからアメリーの現在居住している家の場所を聞き出しておいた。もし何かあったときのために、と理由をつけたら、エルノルドはすんなりと教えてくれたのだ。三つ星ホテル『ノクテュルヌ』の一件はもう許されたのか、エリカならもうアメリーを利用しない、というエルノルドの妙な信頼を得られたのかもしれなかった。
(もう一つ考えられるところは、エルノルド自身に何かあったときのために、かしら。アメリーをどうにか助けられるのは私やベルナデッタくらいだし、きっとそう。だったらまあ、顔合わせくらいしておいたほうが何かとスムーズよね)
そんな思惑もあって、エリカは進路を変えた。
「キリル、帰る前にアメリーのところに寄ろうと思うんだけど」
「む? 家を知っているのか?」
「エルノルドから聞き出したわ。そのあたりで何かお土産買って訪ねようかなって」
「ついでに何か食事も頼む。腹が減った」
この騎士、今日は食っちゃ寝しておいてまだ空腹を訴えている。見上げるエリカからの白い目を、キリルはあからさまに顔をそらして回避しようとしていたが、無駄な努力だ。
エリカは呆れてため息を吐き、ならばと別の案を出す。
「アメリー、まだご飯食べてないかしら。誘えば出てくるかも」
もうじき、大通りのレストランやカフェは明かりを灯してディナータイムだ。路地の食堂なども遅くまでやっていることは多いが、大体近隣住民が集まって席を占拠しているので入りづらい。アメリーが自宅周辺の食事処を把握しているとも思えないし、通り道でいい店がないかチェックしつつ向かう——そんなエリカを見ていたキリルが、こんなことを聞いてきた。
「エリカ、少し見ないうちに姿勢がよくなったな?」
「え? そう?」
「うむ。筋肉がついたのか? 何かトレーニングを?」
「していな……ええと」
エリカは咄嗟に口をつぐむ。ドーピングアイテムをステータスマックスになるまで大量に使用しました、と正直に話すのは気が引ける。キリルがドーピング自体を咎めることはないだろうが、余っていたことを知れば「なぜそこに俺を呼ばなかった!?」とわがままを言ってくる可能性がある。
そそくさ早足で歩くエリカと並走するキリルは、まじまじと好奇心のままにエリカの外見を観察して原因を探ろうとしていた。
「よく見れば、髪のつやも輝かんばかりだな。主に宝石模様が」
(ドーピングアイテムのおかげで魔力量もグッと上がって満タンになってるんだろうなぁ)
「これはあれか?」
(え、ドーピングのことバレた!?)
「恋をしたのだな!?」
ずばり図星だろう、とばかりにキリルは自信たっぷり、大声で叫んだ。
大通りと大通りの間の道は、あまりすれ違う人は多くない。だが、周囲の視線がちらほらエリカの肌に刺さる気がする。
腹が立つやら憐れやら、エリカはごく冷静にツッコんだ。
「誰に? 婚約者いるのに?」
「え、いや、それは……まあ」
「はあ、馬鹿なこと言っていないで、お土産に何買うか考えてよ。花とお菓子なら」
「両方でいいだろう?」
「キリルじゃないんだから。アメリーは貴族のお嬢様なのよ?」
「だが、エリカもそうだろうに」
「何、私が貴族令嬢らしくないから分からないって?」
「そこまでは言ってない! 言っていない!」
余計なことを言ってしまったばかりに、キリルは蹴られるサッカーボールのごとく、目的地までエリカに悪意をもって足を踏まれそうになりながら進む羽目になった。目的地の方向は合っているため、このまま進んでいって問題はない。
キリルのメンタルが小学生男子なのはなぜだろう。まだ寝ぼけているのだろうか。胸から溢れるため息にうんざりしながら、エリカは交差点を抜けて古い街並みの路地に入る。そのころには、いい加減キリルも反省して口を塞ぎ、エリカの後ろを慎ましやかに歩いていた。上り坂が多い路地は、斜めに配置された家々が密集して立ち並ぶ。ここの奥へ行くには、上り坂を登り切る必要があるように見えて、エリカは少しげんなりしていた。
しかし、何となく、エリカの他人よりは優れた五感が、違和感を覚えていた。
(なーんか、嫌な予感がする……? いや、違う、焦げ臭い?)
エリカの場合、持ち前の魔力は感覚の鋭敏化に振り分けられている。魔法を習得しなかったため、自動的に身体機能の強化へ魔力が当てられているのだそうだ。魔法調剤師として役立つスキルであり、動物ほどではないにしろ人間としては優秀、程度の地味な能力だ。
そのエリカの鼻が、焦げっぽさを孕んだ空気を感じ取った。風向き、道路の先、空の様子、どれを取っても火事ではないようだが、何せここはアメリーの住む家の近くだ。もうじき角を曲がれば差し掛かる、肝心のその方向が焦げ臭さの元なのだ。
もしかすると、アメリーが……にわかにそう思いついてしまい、エリカはキリルへ急いで指示を出す。
「キリル! すぐの角を右に曲がってまっすぐ、オレンジの瓦と扉の家! アメリーの家で、何かあったかも!」
「分かった!」
すでにキリルは緊張感を持って、駆け出していた。仮にもエルノルドの協力者、アルワイン侯爵家屋敷から離れた令嬢、そんな身分のアメリーの身に
エリカも角を曲がり、思ったよりも遠いオレンジの瓦と玄関の扉を持つ家を目指して走る。そこまでの上り気味の道はざっと百メートルはあるだろうか、そういえばキリルの姿が前方には見えない。建物の上を見上げれば、二階や三階の窓から迷惑そうな顔や心配の表情の住人たちが身を乗り出して、焦げ臭さの原因へと目を向けている。
ちょうど、オレンジの瓦と玄関扉を持つアメリーの家へ、だ。
エリカが辿り着く直前、アメリーの家の二階窓が派手に割れ、路地にガラスや木製の窓枠が破裂して散乱した。それだけではない、黒い煙がもうもうと空へなびいている。
(火事じゃんこれぇ!? アメリー!?)
驚いて立ち止まるエリカへ、野太い警告が降ってきた。
「エリカ、後ろに避けろ!」
キリルの声だ。姿を確認できずとも、エリカはその言葉に従って後ろへ飛びずさる。
ほんの一瞬ののち、路地に散乱したガラス片の上へと、キリルが降ってきた。アメリー宅の二階から飛び降りたらしく、片膝をついての着地でガラス片が四方八方へ削られ飛んでいった。そして、その体の前には、しっかりと紺色と緋色の髪を束ねた女性が抱き抱えられている。
部屋着のキルトドレスとエプロン姿のアメリーが、大変不機嫌な顔——相変わらず美人だがその鼻頭や頬には黒い
とりあえず、無事を確認しよう。エリカは、おずおずと不機嫌なアメリーへ声をかけた。
「ア、アメリー……大丈夫? なんか、
何をすればこんなことに、と口走りかけたが、エリカは察した。
アメリーの手には、小麦粉が指の隙間までびっしりと張りついている。間違えても
さらには、アメリーのエプロンに黒焦げに大きく燃えた痕跡が二箇所あった。何をすればエプロンが燃えるのか? アメリーという女性の事情を踏まえて考えつくのは、やはり、というか当然、こういった結論しかない。
「……アメリー、料理、失敗したの?」
それにはアメリーは答えない。恥ずかしいのか泣きたいのかよく分からない表情だ。ただ、因縁があるとはいえ、知り合いがやってきて安堵したのか、憎まれ口を叩く余裕が生まれたようだった。
「どうしてこんな情けないときに限ってあなたたちが来るの……」
「そうは言われても」
「うぅ……ちょっと、ちょっとだけ、卵を焦がしただけなのよ」
「いや、ものすご」
「おだまりなさい!」
デリカシーなく合いの手を打つキリルへ、アメリーが調子っぱずれな声で一喝した。照れ隠しだろう、きっと。
(多分、このまま放っておいてもエルノルドに連絡が行くだろうけど、とりあえずアメリーを慰めたほうがよさげよね……)
まかり間違っても、アメリーをここに放ってエリカとキリルは帰ります、というわけにはいかない。すでに野次馬が各家々の窓から顔を出している以上、料理に失敗して
キリルが再度アメリーの家に入り、キッチン以外火事には至っていないことを確認したのち、近くを通りがかったらしき見回りの騎士や警察官が集まってきたのを見計らって、対処を任せた。
そんな中、エリカはアメリーへ平静を装って食事に誘う。
「とりあえず、どこか食堂かレストランで夕食にしない? 靴を履き替えて、気分転換しましょう」
その言葉に、ようやくアメリーは自分の足元を見て、室内用のスリッパで路地の石畳を踏んでいると気付いた。愕然とした表情から諦観の表情へとコロコロ変わったかと思いきや、最後は肩を落として力なくエリカの誘いに応じた。
「……ええ、かまわないわ」
何とも、アメリーの『ノクタニアの乙女』原作準拠の薄幸さに、エリカは同情を禁じ得ない。
(この子、このまま放っておいたら絶対幸せになれないわよね……? 原作でもあんまり扱いはよくなかったというか、掘り下げがそこまでなかったから何だけど、そもそもロイスルの婚約者な時点で不幸すぎるもんね……何も悪いことはしていないのに)
エリカは再び決意した。やはり、アメリーも必ず幸せにしなければ、と。
ひとまず、幸せは食事からだ。すかさずキリルが周辺住民から聞き出してきた食堂が近くにあるらしい、そこへ行こう。