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第27話 それはまるで映画みたいな-1

 本日のエリカの服装は、ごく一般的な女性用デイドレスだ。魔法学院に行くだけのために馬車を用意して正装なんてしない。とはいえ、ヒールはさほど高くないが、長く歩くには向いていないし、走るのはもってのほかだ。夏の入りということもあって——かつて住んでいた現代日本と比べればずっとマシではあっても、少しずつ暑くなっている気候を考えると少々窮屈で不快だ。

 だが、今は緊急事態である。エリカはドレスのスカートをガッと握り拳で掴んで裾をひざほどに上げ、ヒールの踵ではなくつま先で忍者よろしく小走りする。その後ろを、エルノルドがもどかしそうについてくる。どうせ(もっと早く走れよ、これだから女は)とぶつくさ心の中では思っていることだろう。

 二人は平たく敷き詰められた石畳の歩道を駆け回り、ときに角を曲がり、細い路地を経由して別の路地へと抜けていく。それだけではない、もうじき昼時だ。すれ違う人々を押し除けていかなければならないほど混んでくれば走れなくなるが、逆にを撒くには好都合となる。

 見知らぬ路地に入りこんだエリカは、前から歩いてきた三人組のおじさんたちを建物スレスレまでどうにか避けて、すれ違う。エルノルドも同じようにすれ違ったが、おじさんたちに舌打ちされていた。エリカよりも図体がでかい男だからだろう。クスッと笑っている場合ではない、エリカはこの状況を打開する方策を考える。

 今も後ろからは、急ぐ重い足音がいくつも聞こえる。追いつかれてはまずい、とエリカの本能が訴えていた。前世も今世も頭脳労働派なエリカは、体力的に逃げつづけることは困難、となればやることは——。

 路地の伸びる先は、前方、後方、それから細い坂道、行き止まりと分かっている椅子やテーブルが積み上げられた建物の倉庫代わりの隙間。選ぶのは当然、最後の隙間だ。

 エリカはエルノルドへ目配せし、隙間を指差した。テーブルと壁の空間に体をねじ込んで、邪魔な椅子を押し除けていく。その後ろを、エルノルドが無理矢理突破してきていた。エルノルドが通ったあと、高々と無造作に積み上げられていた椅子が落ちては壁に引っかかり、そこへ二人でテーブルの面を何とかずらして目隠しとする。微妙に息が合っていない共同作業だったが、ぶっつけ本番である以上致し方ない。

 狭く薄暗い行き止まりのスペースで、エリカとエルノルドは向き合ったまま息を整える。普段から運動しない貴族令嬢も、ちょっと歩く程度の貴族令息も、追いかけっこは本当につらい。しかも、できるだけ息を殺して呼吸を整えるというのは、緊張状態もあって余計に精神的プレッシャーがかかる。荒い呼吸音で追いかけてくる連中に聞き取られたらどうしよう、と不安は募るばかりだ。

 互いに互いを気遣う余裕もなく、じっと隠れること数十秒。

 エリカとエルノルドを匿うテーブルの面の向こうでは、怒号と命令口調と文句が飛び交っていた。

「どこへ行った?」

「隠れられそうな場所はすべて探せ!」

「貴族のお嬢様のくせに、逃げ足が早い」

 明らかに荒っぽい口調と足音が騒がしく、しかし確かに遠ざかっていく。

 完全に彼らの音が聞こえなくなってから、エリカは安堵のため息を吐いた。

「はあ、何とかなった」

 エリカのすぐ頭上から、エルノルドの咎める声が降ってくる。

「何をしたんだ?」

「それはこっちのセリフよ」

「やつらが追っているのはお前だろうが」

「全っ然知らない、何もしてない」

 腹が立つことに、エルノルドはエリカのせいでこんな目に遭っている、とばかりの非難がましさだ。

(この男のこういうところ、本当最悪なんだけど! 顔がいいだけすぎて腹立つわー)

 魔法学院を出てすぐ、同じ方向に歩き出した二人は背後に尾行者がいることに気付いた。互いに互いの尾行者だろうと思って、尾行を撒くために本来の帰路とは異なる路地へ入ったり、角を曲がったりとしていたら、偶然なのか無意識なのか、二人ともひたすら同じ道を歩いていた。エリカ本人も認めたくはないが、揃いも揃って間抜けである。

 お前は別の道を行け、とエルノルドが言い出すころには、尾行者が複数人いた。このまま辻馬車に乗り込んで逃げようとしてもおそらく強引に捕まって連れ去られる、と予想した二人は、不本意ながら別れずに対処するしかないと同じ結論に達したのである。

(貴族のお嬢様やご令息が、護衛もなしにゴロツキ複数人に勝てるわけないでしょーが! エルノルドを生贄に逃げたとしても、私も目撃者扱いで消されるかもだし、ここまで来れば一蓮托生よ!)

 そういうわけで、二人揃って尾行者たちから逃げていたのだが、まさか壁と椅子とテーブルに挟まれつつ今までにない至近距離でお見合い状態になるとは想像もしていなかった。本来乙女ゲームであればときめくような重要な恋愛イベントなのだろうが、エリカが見上げればエルノルドは憮然とした顔で見下ろしてくる。これがまた腹が立つので、エリカは憎まれ口を叩く。

「狭いんだけど」

「外に出ればいいだろう。そっちの隙間から出ろ」

「はいはい、でもここから先はどうしよう」

 エリカは渋々、テーブルをどけて椅子の山を解いていく。エリカ一人が通れるくらいのスペースならすぐにできるものの、成人男性のエルノルドが問題なく通れるとなると大仕事だ。結局、椅子の山を必死に押し倒して、強引に元の路地へと戻るしかなかった。どうして入るのはできたのに、出るときはこうなるのだろう、と反省してしまうほどに、無罪の椅子たちが盛大に散乱している。

 エリカの切り拓いた道を、エルノルドがのそのそと出てくる。そして、今度は辺りを見回したエルノルドが先頭に立っていく。

「こっちだ」

 他に頼れるアテのないエリカは、無言でエルノルドへついていくしかない。大股で歩いていくエルノルドを、駆け足で追いかけるエリカは、いくつか角を曲がって石造りの建物に部分的木造の建物が混ざってきたころ、突然エルノルドがそこにある扉を開けて押し入った。

 知り合いの家なのか、とくっついていくエリカだったが、当然そうではなかった。

 中は木工職人の工房で、木製ドアノブや椅子の飾りを彫っている老人と青年が驚きの表情で固まっていた。エルノルドは一つ咳払いをすると、エリカに扉を閉めさせてさっさと本題に入る。

「突然すまない、匿ってくれ。これで頼む」

「な、何だあんたら! いきなり他人の家に上がり込んで」

 青年職人の当然の反応である。しかし、エルノルドは進み出て、青年職人の荒れた手に丸めて束にした紙幣を握らせた。エリカの見立てでは、職人の一ヶ月の給料をゆうに超える。青年職人へもう一つ手渡し、老人にも渡すよう言いつけると、エルノルドは奥へ勝手に何かを探して入りこんでいく。そのあとを青年職人が追いかけて、こんな会話が聞こえてきた。

「屋根に出られるか?」

「二階のハシゴでどうぞ!」

「誰か来たら、適当にしらばってくれていい。無関係を装えば、危害を加えられはしない」

「わかっ、分かった……!」

 エリカは老人と顔を見合わせる。ノミ片手の老人へ、なんとなくエリカは「申し訳ありません」と謝り、老人は「いやいや、気にしないでくれ」と気遣ってくれた。エルノルドがエリカを手招きすると、粗末な階段を登った先の屋根裏に通じるハシゴが青年職人の手によって設置されていた。

(……もしかして、屋根裏の窓から屋根に出るの?)

 すでにエルノルドはハシゴを上り、さっさとしろとばかりにエリカを睨んでくる。

 ここで文句を言ってもどうにもならない。エリカはスカートの裾をまとめて縛り、一歩上るたび悲鳴を上げるハシゴのお世話になって、職人工房の屋根裏にたどり着いた。長く使われていないようで、足元も置かれた家具も埃が層になって積もっている。

 そんな状況でも、エルノルドは躊躇ためらいがない。両開きの窓を力づくで開け、外へ踏み出した。

(まあ、ノクタニア王国の建物の屋根って基本ゆるやかだし、建物同士もヨーロッパ風で互いに支え合う形だから行けるっちゃ行けるけどさ……まさか、そんな映画か何かみたいな真似をすることになるとは思わないじゃない???)

 正直、エリカは運動もできないし、高いところもあまり得意ではない。一日中椅子に座って机に向かっているほうが性に合うタイプだ。

 それでも、やらねばならないときはあるようだ。エルノルドが軽々と外に出ていったのを見ていたせいもある。

 エリカは窓枠に足をかけ、さらに両手で掴み、「ふん!」という掛け声とともに体を持ち上げる。

 思ったよりも勢いよく飛び出し、ついでにいきなり太陽の下に出たせいで目が眩んだ。外で待ち構えていたエルノルドが腕を伸ばしてエリカの手を掴み、何とかバランスを取らなければ、あと半歩先の三階相当の高さから落ちるところだった。

 気を取り直して、ゆるやかな傾斜のオレンジの屋根瓦を踏むと、どうにもヒールでは行けそうにないが、見かねたエルノルドがエリカの手を取ったまま進みはじめた。屋根の上から街並みを見て、ある程度地理が把握できているらしく、エルノルドは迷わずまっすぐに、だ。

 あのエルノルドが——『ノクタニアの乙女』ゲーム中では女性相手だろうと偉そうな態度を崩さず、追加シナリオでやっとベルナデッタにデレたもののバッドエンドという死亡フラグか何かかと言われたのに——である。

 危機的状況だが、高さへの恐怖心と気恥ずかしさを隠すために、エリカは軽口を叩く。

「手慣れてるわねー」

「うるさい」

「屋根伝いに逃げるの? 近くに隠れられそうなところは?」

「それを探すために登ったんだ」

「ああ、そう」

「不満なら来なくていいぞ」

「だから、そういう言い方がよくないってば」

 そういえば、『ノクタニアの乙女』ゲーム中でエルノルドが誰かと手を繋ぐシーンは出てこない。あれは誰とも結ばれない、という意味だったのかもしれない。だが——そこまで頑なにエルノルドのハッピーエンドをシナリオライターが拒んだというのも不思議な話だ。

(悪役魔法使いのロイスルさえ攻略ルートがあるのに、エルノルドは追加シナリオまで待った上に、なのよね。しかも、他の攻略ルートではエルノルドは噛ませ犬だったりするし……元々は配役が違ってたとか? 攻略対象じゃなかったとか、バッドエンド担当にされたとか? でも、リアルでは人気だったから追加シナリオが出たってことも考えられるし、うーん)

 ゲーム制作会社の裏事情などというものは、プレイヤーであるユーザーには知る由もない。関係者が雑誌インタビューやSNSで公表したり、設定資料集に記載されているものが限界で、初期設定や未実装設定の存在は分かっても完成までの変遷や没理由までは詳細に知りえなかったりする。

 もし前世でエリカがSNSまでしっかりと『ノクタニアの乙女』情報を追っていれば分かったことかもしれないが、少なくとも今、エリカはを把握していない。

(だから、今でもエルノルドをベルナデッタとくっつかせるわけにはいかないのよね。不幸になることが分かっていて許すもんですか。ひとまず死亡確定のアメリーを救わなきゃだし、エルノルドは意外としぶとそうだから最悪逃がしさえすれば何とかなる。そこを押さえた上で、どうするか……)

 現状、エリカの脳内には二つのプランがある。

 一つは、エルノルドの実母救出、からのベルナデッタ頼りに臨機応変コースだ。とにかく実母エレアノールを救出すればエルノルドはこだわることなどないだろうから、ついでに助けたアメリーごとノルベルタ財閥とベルナデッタに丸投げしていいようにやってもらおう、という完全に他人任せの内容だ。実のところ、このプランが一番実現しかねず、エーレンベルク公爵家一門に睨まれてノクタニア王国にはいられなくなるという最悪のデメリットを許容しなければならなくなるため、あくまで最終手段としての保険だ。

 もう一つは、エリカが解呪薬リカースを完成させてその功績で国政に口出しをする、という気宇壮大なプランだ。ドミニクス王子経由で自身を売りこみ、一応婚約者のエルノルドを王室御用達商人に格上げさせて権力や発言力を与え、実母エレアノール救出計画の内容を温和な方向へ変更させる。このプランなら、エリカ自身が救出に大きく関与することも可能ではある。さすがのエルノルドも、ここまで恩を受けておいてエリカをないがしろにはしないだろう。そのあたり、義理堅い性分なのは判明している。ただし、このプランだとどうしても時間がかかる上、エルノルドと何だかんだ婚約者関係を維持したまま付き合っていかなければならない。そこまでエリカがエルノルドの手綱をきつく引いたままいられるかというと、ベルナデッタを出汁だしにしないかぎりまったく自信はなかった。

(どっちにしてもベル頼り……もうちょっといい案が思いつけばなぁ。そういう策略とかは私の分野外だしー……また今度、そのへんが得意なドミニクス王子やベルに知恵を拝借しないと)

 ガシャガシャと屋根瓦を踏む音がやかましい。考え事をしながら、エルノルドに手を引かれて連れていかれていると、走って逃げているときよりは余裕がある。

 しかし、そのせいで忘れていた。時刻は正午近く、じわりと汗がにじむ夏の日差しがエリカの——魔力を持つ者の証である——エメラルドのように光る緑髪に照り返され、あちこちに不思議な反射光を撒き散らしている。路地を歩く人々が何事かと空を見上げている様子に気付くことが遅れ、それは追っ手の連中に屋根の上を見上げる機会を与えてしまっていた。

「いたぞ!」

 聞き覚えのある男性の声が、どこかから聞こえてきた。

 あっという間に、振り返ったエルノルドが今の状況を理解してしまった。エリカの髪の照り返しで追っ手に見つかり、屋根の上をわざわざ危険を犯して歩く意味が失われてしまったという最悪の状況を、だ。

 エリカは思わず目を逸らしたが、大いに咎めてくる猛禽類のような眼差しはとても冷たい。

「バレた!?」

「お前の髪のせいだ!」

「もー! この髪、本っ当にイヤ!」

 エリカの髪を覆うものは何一つなく、束ねてもさほど意味はないのでどうしようもない。しかし、自分の落ち度だ。罪悪感からエリカは打開策をと必死で考え、その鋭敏な頭脳ゆえか、一秒とかからずに次善策をエルノルドへ伝える。

「エルノルド、市場! 中央市場なら、安全なところがあるわ!」

「本当だろうな!?」

「顔役のアレサンドロさんと知り合い!」

「お前が!?」

「今は信じなくていいから走る!」

「くそ!」

 悔しげなエルノルドが、方向転換してエリカの手を引っ掴んで駆けていく。これが屋根の上でなかったならよかったのだが、屋根瓦を踏む騒音と高所ゆえの恐怖と追いかけられている危機感が、ロマンスのかけらも生み出さない。

 エリカは思った。

(こういうときはお姫様抱っこしてほしい〜……!)

 無論、エルノルドにはまったく期待できそうになかったので、エリカは自力で走るしかなかった。エルノルドこいつは本当に乙女ゲームの攻略対象キャラか? という悪口が思い浮かんだが、あまりにも詮ないためついぞ口から出すことはなかった。

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