こんなに青ざめたエルノルドの顔を見るのは、ゲーム全編を通して一度もなかった気がする。
自分よりも動揺している人間を見ると冷静になる、というのはそのとおりで、エリカはあまりにも可哀想な有様となっているエルノルドのおかげで冷静さを取り戻した。
「エ、エリカ!? そこにいたのか!? いや、アメリーも一緒に!?」
とはいえ、白々しい、とイラッとしないこともない。もはやエルノルドを見る目は変わり、ちょっと天罰を受けてほしいと思うほどだ。
エリカの背後に、アメリーがやってきてつぶやく。
「どういうこと……?」
エリカが振り返った先には、思わず鳥肌が立つような——嫉妬に狂った女の顔があった。
これはまずい。エリカは大慌てでなだめに入る。
「アメリー! ちょっと落ち着こうね! 何がどうなってここに来たの?」
「……どうしてそれをあなたに言わなくてはいけないの?」
「落ち着け。アメリー」
空気を読まない男、元凶たるエルノルドまでアメリーをなだめにかかったせいで、アメリーは震える唇からとんでもないことを言い放つ。
「
VIPルームに足を踏み入れたアメリーは、ベルナデッタをきつく睨みつける。当然ながら、ベルナデッタはいちゃもんをつけられたも同然で、少々怯えつつも生来の気の強さから反論を試みる。
「奪ってなんか」
「奪ったわ! あなたさえいなければ、
「はあ!? いきなり来て何!? 訳の分からないことを言わないでちょうだい!」
「いつもあなたはそうよ! 他人のことなどお構いなし、好きなものを取って、好きなようにする! 私のことなんか何にも知らないくせに、気遣ったふりをして!」
「まるで意味が分からないわ! 何でもかんでも、不幸を私のせいにしないでよ!」
「その上、エルノルドまで奪うつもり!?」
——アメリー、それは正しくない。だってあなた、ゲーム全編を通して一度だってエルノルドに告白しなかったじゃない。
そうは思いつつも、エリカは指摘を呑み込む。
だが、同時にエリカはこうも思うのだ。
——あれ? じゃあ、今、アメリーが「エルノルドまで奪う」と口にしたのは、ゲームシナリオにはないセリフ、よね? もはや告白だし……?
ほんの少しの、しかし重要な違和感だ。
なのに、仲裁に入ろうとする情けないエルノルドの声が、エリカの思考を阻んだ。
「お、落ち着け、アメリー……ベルナデッタは」
「ええ、あなたの好きな人でしょう? 知っているわ、あなたがこの食事会をどれだけ楽しみにしていたか! 私は、ただの雇われだもの。あなたに恋なんてしなければよかった!」
(ちょっと静かにしてくれないかな、この人たち)
以降、アメリーとベルナデッタの中身のなさそうな言い争い、仲裁に入ろうと何の役にも立っていないエルノルドの幼稚な争いが延々と続く。
滅多に見ることのない、見事な三角関係だが、途中からエリカは飽きてきた。部屋の隅っこに退避し、初めて色恋沙汰の醜い争いを目の当たりにする呆然としていたキリルとともに体育座り状態だ。プライベートに立ち入らないようにか、いつの間にか給仕たちはナイフとフォークを回収して姿を消している。
まもなく正気に戻ったキリルが、喧々轟々の目の前の光景について感想を漏らした。
「……よく分からんが、これは修羅場というやつか」
「あんたのせいでね」
「め、面目ない」
キリルは謝りつつも、何が悪かったのかきっと分かっていないに違いなかった。
しかし、それよりもだ。
エリカとキリルの間にはボストンバッグがあった。その中から、妙な音が聞こえたのである。
ヒビが入るような、分厚いガラスが割れるような、甲高い悲鳴とも似た音だ。
(……パキッ? え……中身は
音の出所を探るべく、エリカはボストンバッグのボタンを外し、中を見る。
もちろん、中には
そのぎゅうぎゅうに詰まった多種多彩な大量の
「あ、
ボストンバッグの開いた蓋の中にあるたくさんの
これには、キリルが真面目な表情を取り戻した。
「む! ということは、『
見ているそばから、
(どういうこと? 今、『
エリカは咄嗟に周囲を見回す。『
そうすると、視界に入ってきた泣き喚く二人の美女、ベルベットのドレスを着たアメリーの背に、
目の錯覚かを見紛うばかりに、うなじから肩甲骨の間にかけての背中で、わずかにブレて空間ごと揺れている。
(アメリーの背後に、
それが『
こののち、エルノルドが音を上げてエリカへ助力を乞うてきたため、その観察は続けられなくなったが——エリカはアメリーかエルノルドの血液を手に入れる、という当初の目的は果たした。
なので、エルノルドとアメリーを放置して逃げ、何とか強制的に事件に幕を引いたのである。
☆
エリカは、追いかけてきたベルナデッタとキリルに合流し、ルカ=コスマ魔法薬局に雪崩れ込んだ。
幸い、すでに閉店時刻を過ぎ、店じまい担当の魔法薬調剤師も夕食を摂りに出かけていた。三人はこっそり当直室へ上がって、採取したアメリーの血液と割れに割れた
もっとも、主に分析作業はエリカの仕事で、二人には
その結果、朝日が昇る直前になって、徹夜明けのエリカは大まかな分析結果を二人へと発表することができた。
「結論から言えば、新発見要素が多すぎて嬉しい悲鳴よ。まだ仮説にすぎないけれど、おそらく間違いはないはず!」
おー、と床に座り込んだ二人から、力ない歓声が上がる。
ただの徹夜ならさして疲れもないのだが、昨夜の夕食会のせいで三人全員が謎の疲労感に苛まれている。それでも、エリカは虚勢を張って世紀の重大発表をとり行った。
「まず一つ、『
「おお! 魔法使いでもなく、道具も使わずに、人の身で対抗できるようになるのか!」
「まあ、それだけアメリーの血液には『
少し間が空いたものの、ベルナデッタも力強く頷いた。遺恨はあるかもしれないが、ベルナデッタは他人の不幸を喜んだりはしない。
さらにエリカは発表を続ける。
「二つ目、
「じゃあ、多種多様な
「そうね。でも、さすがにそれは面倒すぎるから、集約できるよう努力するわ」
「三つ目は何だ?」
先を急ぐキリルは、好奇心の宿った瞳でエリカを見上げる。
もちろん、エリカはその期待に応えられるだけの分析成果を挙げていた。
「『
これらの分析結果は、アメリーの血液中に存在する『
ただ、そのせいでエリカは慣れない精密な魔力行使と、極度の眼精疲労による頭痛が襲ってきているのだが、それは黙っておいた。休めば治るし、治すための薬はここルカ=コスマ魔法薬局にはごまんとある。ドーピング万歳だ。
「とはいえ、
「もちろん、私も手伝うわ!」
「俺も、何かできることがあれば言ってくれ」
ベルナデッタとキリルは、顔こそ疲れの色が見えているが、その意気は軒昂だ。
ありがたいことに、二人はエリカを信じてくれている。何よりも、エリカはそれが嬉しかった。
「アメリーの血液に付いた『
無論、それはあくまで理想であって、そこまで辿り着くのは骨が折れるどころの話ではないだろう。
とはいえ、その第一歩は踏み出せた。あとは、エリカの努力次第だ。
そこまで胸を張って発表したはいいものの、喉元過ぎれば暑さ忘れるとばかりに、エリカの頭には後悔が浮かんでくる。
「あのとき、ついでにエルノルドの血液も採取できていたらなぁ……比較研究できたのに」
その名前を聞いて、ベルナデッタがちょっと渋い顔をした。
「……また彼に会うのは、ちょっと」
「ああ大丈夫、会うとしたら私一人だから。あの騒ぎだと婚約破棄されたってしょうがないし、ほら」
昨夜の夕食会は、まず間違いなくエルノルドのプライドをボッコボコにしたことだろう。というよりも、初めからエルノルドはエリカとの婚約に乗り気ではないのだから、これを好機と捉えて婚約解消を申し出ることだって十分にあり得るし、別にエリカはそれでもよかった。あとはエルノルドとアメリーがくっつけば万々歳だ。
ふと目を向ければ、いつの間にか、なぜかキリルまで渋い顔になっている。疑問に思いつつも、エリカは願望を口にした。
「今頃、エルノルドとアメリーが仲直りしていてくれれば御の字なんだけれど」
残念ながら、乙女ゲーム以外ほぼ恋愛経験のないエリカでは、あの二人がその後どうなったかを予想するのは難しかった。
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