「まあいいか!」
「?」
「いえ、お気になさらず。俺はキリル・ウンディーネと申します」
「私は……アメリーよ」
アメリー。
やはり、キリルの記憶の中にアメリーはいなかった。実際には話題に出たことはあるにもかかわらず、それよりも彼の興味は別のところにあったため、ほぼ憶えていなかったのだ。
そして、キリルは気になっていることを遠慮なく指摘する。
「では、レディ・アメリー。一つだけお聞きしても?」
「何かしら?」
「そのご友人は、ひょっとすると、あなたの意中の相手では?」
キリルの発言に、ベルベットの女性ことアメリーは一瞬で頬を紅潮させ、しどろもどろになった。
「な、な、何をおっしゃるのかしら!?」
「申し訳ない、落ち着いて!」
アメリーをなだめつつも、キリルがズバリと直言したのはわけがある。
この騎士キリルは
その直感がささやくのだ。目の前のレディ・アメリーは——
すなわち、キリルが心配している友人に好意を寄せるように、アメリーもまた心配している友人
となれば、その疑問は口を突くようにまろび出て、アメリーを大変に動揺させた。足を止めたアメリーは胸に手を置き、紅潮した頬をもう片方の手で隠し、照れている。
「わ、私が、エルノルドを……好きなわけ……第一、彼には婚約者がいるのに」
「はい、いえ早合点をして申し訳ない」
「い、いいの、大丈夫。やっと……心臓が落ち着いてきたわ」
ぜえはあと興奮して息が荒くなったアメリーが落ち着くまで待ち、二人は一旦目抜き通りのカフェの壁に寄りかかる。通りすがりの大勢の人々は二人に視線を向けることがあっても、関わろうとはしない。楽しい時間の最中に余計なことをしようとは思わないのだ、きっと。それとも、騎士礼服のキリルの威光か、あるいは貴族の一員と思しき美しい淑女の背後を畏れてか——何にせよ、邪魔は入ってこない。
しばしアメリーと目抜き通りを眺めつつ、申し訳なさそうにキリルは無言を貫いた。そこまで反応されるとは思っておらず、エリカとはまた違う貴族の女性のか弱さを甘く見ていたことを自省している。
そういえば、王侯貴族には秘め事が多いから聞いてはならないこともある、とドミニクス王子に注意された過去を思い出していたキリルは、やっとアメリーが顔を上げて、ため息を吐いた場面を目撃した。
「でも……そうね。そうかもしれないわ」
アメリーは、独白するようにつぶやく。
「私に優しくしてくれた人なんて、今まで彼くらいだったから。だから、私は好きだと勘違いしているだけよ、きっと。私もいずれ婚約者のところに行かなくてはならない、それまでのお仕事仲間というだけ……」
消え入りそうなつぶやきにも、遠慮せずにキリルは合いの手がてら追加の問いを重ねた。
「では、そのご友人にも意中の相手はいませんか?」
もちろん、キリルはこの質問がセンシティブだと気付いていない。
アメリーは呆気に取られていた。
「ず、随分と単刀直入にお聞きになるのね」
「申し訳ない」
「いいの、多分彼にも好きな人がいるわ。彼、今日なんてずっとそわそわしていて、多分その意中のご相手との夕食だろうし」
アメリーは、先ほどの手紙をずっと手に持っていたようだ。ドレスの袖の中で、大事に握っていたのだろう。
だが、アメリーは一度は開かれた封筒を、再度開こうとは思えないらしい。
「……馬鹿ね、私。この招待状の中を見ればその相手の名前が分かる、なんて思ってしまったわ」
意中の相手が恋焦がれている人物が誰なのか、それは知らずにおいたほうがいいのか、知って恋心を諦めたほうがいいのか。
アメリーは、それを知ることをためらっていた。控えめな性分だけが理由ではない。自分の好きを含んだ確定しない感情が、明らかな失恋に繋がってしまわないかを恐れてのためらいだ。
ただ、淑女アメリーの隣には、何の機微も解さない野生児な騎士キリルがいた。キリルは手紙を読めば名前が分かるのか? くらいにしか考えていない。
ゆえに、キリルは無礼にもアメリーの手から手紙を取り、中の招待状をさっさと取り出した。無論、アメリーの背を押すため、キリル本人はよかれと思ってのことである。
「では、俺が読みましょう。えー」
「ちょっと!?」
アメリーがわたわた慌てて招待状を奪い返すよりも、キリルが招待主の名前を読み上げるほうがはるかに早かった。
「ん……? ノルベルタ? ベルナデッタ・ノルベルタ?」
「え?」
このとき、キリルは(今日はよく聞き覚えのある名前が耳に入ってくるなぁ)くらいにしか思っていなかった。
だが、さすがに思い出した。ベルナデッタ・ノルベルタが何者か。エリカがよくその名を口にするから、という理由でだ。
「思い出した!」
「な、何を?」
「ああいえ! その、えー」
キリルは口ごもる。
ベルナデッタ・ノルベルタはエリカの友人であり、ノルベルタ財閥の令嬢であり、おそらくアメリーの意中の相手が夢中になっている女性だ。そこまでやっと理解して、自分の見知った相手、エリカに何らかの被害が及ぶのではないか、とキリルは思い至ったのだ。
決して、アメリーやベルナデッタに遠慮して、ではない。
見上げてくるアメリーから目を逸らし、キリルは大いに悩んだ。
「なぜそんなことに……?」
キリルの胸中は近年稀に見る複雑模様を呈していた。
この日の退勤後の予定は、三つ星ホテル『ノクテュルヌ』へ荷物を届けにいってエリカに会う、ただそれだけだと思っていたのに——いや、一緒に帰るとかそういうことは期待していたが——どうにもキリルの直感はこう告げていた。
——絶対、一波乱があるぞ。