ノクタニア王国王都は、夕暮れ時から本格的に賑やかになる。昨今の灯りは蝋燭から魔法道具へと変化し、まるで昼間と変わらぬ明るさを王都全体へもたらした。夜の女神がその居城たる空よりノクタニア王国王都を覗き見れば、世界でもっとも輝く都市であるかのように見紛うだろう。
その中でも王城から南へと伸びる目抜き通りは、夜道であろうと賑わいが絶えることはない。有名なレストラン、カフェ、ホテル、高級店が軒を連ね、紳士淑女も、酒が入った者も、治安維持に務める王都巡回兵たちもみな愉快そうに往来を歩く。最近では下町まで魔法道具による安価な灯りが普及しているため、夜の暗さや恐ろしさはこの王都の民にとってはすっかり縁遠くなっていた。
この王都に生まれ育った騎士キリルも、時折王都から離れた土地での野営が恋しくなるものの、賑やかさは嫌いではなかった。むしろ、平和や繁栄の象徴と素直に受け止めている。ときどき喧騒が聞こえてきたり、巡回兵が割って入るような争いはあっても、何が潜むか分からない闇夜に怯えることもなく過ごせる。夜遅くなってもどこかしらに人目があり、灯りがあり、女子どもであっても無事に家路に着くことができる。それはきっと、いいことなのだ。
王城から退勤し、主君たるドミニクス王子から託された、大量の
キリルのその気持ちの余裕が、目抜き通りからほんの少しだけ別の通りに入ったところにある、巡回兵の詰め所へ意識を向けることとなった。確かあそこは古い友人の管轄地域の詰め所だ、彼はまだ元気だろうか、などという思いが頭をよぎったからだ。
ところが、詰め所はもぬけの殻だった。何が事件が起きてその詰め所の巡回兵が出払っている、そんなことはよくある。盗めるようなものは置いていないただの休憩所のようなところだから、それで問題ないが——詰め所の前に一人の女性がうろうろとしていなければ、キリルはそのまま歩き去るところだった。
唾広の帽子を被り、ベルベットのドレスとケープを羽織った女性の後ろ姿が、詰め所や周辺をキョロキョロと何かを探すように顔を動かし、何やら悩んでいる様子が見受けられたため、思わずキリルはそちらに足が向いた。困っているであろう人間を見かければ、つい親切心が顔を出す性分だ。
キリルはベルベットの女性の背へ声をかける。
「こんばんは。何か困っていることでも?」
ベルベットのケープがひるがえり、現れた女性の顔にキリルは少しばかり驚く。
深緑の瞳に、編んだ濃紺の髪には緋色の房が混ざっている。そして何より、絶世の美女だ。さほど異性に興味はないキリルでも、女性の美しさには驚嘆する。ただ、どこかで見たような気がしないでもなく、素直な反応を見せたのは一瞬きりだ。
(はて? 間違いなくどこかのご令嬢だが、そんな女性と知り合うことはないぞ? 王城で会ったようにも思えないし、これほどの美しい顔を忘れるとも思えないんだが……うぅむ、まあいいか!)
思い出せない以上、キリルは深く考え込まない。それよりも、目の前の美女は不安げな仕草で唾広の帽子を目深に被り直し、何かをためらっている様子だったが、キリルの服装を見てやっと口を開いた。
「あ……その礼服は、騎士の方かしら」
「ええ、そうです。怪しくはありません」
長身のキリルを見上げるように、安堵したベルベットの女性ははっきりとこう答えた。
「時間を取らせて申し訳ないけれど、お尋ねしたいことがあるの。このホテルに行きたいのだけれど、行ったことのない場所だから道が分からなくなってしまって」
ベルベットの女性がハンドバッグから取り出したのは、一通の手紙だ。招待状のようで、封蝋は開かれている。その右下に、差出人と思しき住所が記載されていた。
それを読んで、キリルは得意げに笑顔を見せた。
「三つ星ホテル『ノクテュルヌ』? であれば、ご案内しましょう。俺もそこへ行くところだったので、ちょうどいい」
「本当? なら、ご一緒してもかまわないかしら」
「もちろん。さ、行きましょう」
淑女をエスコート、というよりもガキ大将が慕う年下の子どもを連れていくように、キリルは頭に入った三つ星ホテル『ノクテュルヌ』への道のりを先頭切って歩きはじめる。少しだけ、歩幅を縮めて目抜き通りを下っていく。
キリルは女性が三つ星ホテル『ノクテュルヌ』に用事があっても気にしないが、逆は大いに疑問であったらしく、ベルベットの女性はおずおずとキリルへ話しかけた。
「失礼かもしれないけれど、騎士様が高級ホテルに何のご用なのかしら?」
「友人に呼ばれていまして。俺も初めて行くところです」
「あら、そうなのね」
「まあ、今回はこの荷物を届けに行くだけです。騎士の安月給ではとても足を踏み入れられる場所ではないでしょうから」
「そうかしらね。貴族であっても、三つ星ホテルなんてそう簡単に出入りできないわ。よほど裕福な家か、そんな家から招待される一部の人々だけしか使わないようなところよ」
どうやら、ベルベットの女性は目的地のことについてよく知っているようだ。
キリルはエリカに頼まれて
「言われてみれば」
「でしょう?」
「まあ、うむ、しかし、友人は妙な伝手が多いもので、そんなこともあるのでしょう、きっと!」
エリカの今までの実績を鑑みて、キリルは勝手に納得する。
ベルベットの女性は呆れたとばかりに、オブラートに包んでこう言った。
「奇特なご友人ね」
「ええ、その性格もだいぶ奇特です」
「そう、なの?」
「とにかく人助けをためらわない、それを鼻にかけることもない。持てる技や知識、金まで惜しみなく払ってしまうもので、少々心配が……ああいや、少々ではありません、とても心配な友人なのです」
「そんな人も、いるのね。貴族の方?」
「ええ。とはいえ、それを普段はまったく意識しておらず、淑女に似つかわしくない並外れた行動力なもので、もう少し貴族令嬢らしくすべきと言い出すこともできないのです」
「その方は女性だったのね。意外だわ」
うんうん、とキリルは頷きそうになって、慌てて首の動きを止めた。ここにエリカはいないが、万一知られれば不機嫌どころの騒ぎではない。
キリルの横を歩くベルベットの女性は、それに気付いていない。それよりも、何か思うところがあったらしく、言葉を選びながら話を続ける。
「私もね、心配な友人がいるの。雇い主って言ったほうがいいかしら、とにかく自分を顧みないものだから、いつも心配で」
「なるほど! いや、よく分かります。俺の友人も同じです、俺は何かと理由をつけて顔を出すのですが、おそらく向こうは目的に集中しすぎて自分が心配されているなどと思っていないのです!」
「そう……そうなの。私も、彼のことが心配で顔を見にいくの。でも、淑女が出歩くなって怒られてしまって……今日だって、大事な招待状を事務所に忘れていったから届けようと思ったの。駄目かしら、また怒られてしまうわ」
「そんなことはありません! きっと感謝されますよ!」
「そ、そう?」
「ええ、もし感謝しないで怒るような素振りを見せたら、俺が割って入り、説明しましょう! 心配をかけるな、と!」
「あら、まあ、ふふっ」
鼻息荒くお節介を焼こうとするキリルは、ベルベットの女性がすっかり怯えを消して、花のように微笑んでいる様子を目の当たりにして、気を良くする。
「説明じゃなくて、それはお叱りね。それじゃあ、彼を叱ってもらおうかしら」
「お任せを! いやいや、最初から喧嘩腰はよくない。ちゃんと話し合いましょう」
「お願いね。騎士様に叱られたら、少しは彼も……エルノルドも話を聞いてくれるかもしれないわ」
エルノルド。
やっと名前の登場したベルベットの女性の言う
(ん? エルノルド? ……どこかで聞いたような名前だな。うん、えーと……確か、エリカの婚約者の名前だったような)
よくある名前、というわけではないが、キリルも貴族の名前になど詳しくはない。それに、キリルはエリカの婚約者に会ったことはなく、エリカが話すことも少なかったために頭の中で『エリカの婚約者エルノルド』が明確にイメージできていなかった。
つまり、