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第19話 事件なのです-3

 発端は、三時間前に遡る。

 現在午後五時前、エリカとベルナデッタは、三つ星ホテル『ノクテュルヌ』のVIPルーム隣控え室にいた。本日午後七時にホテルエントランスで待ち合わせを予定しているエルノルドとの夕食会を前に、ひと足先に乗り込んで準備をしていたのだ。

 もっとも、とりあえずライトグレーのイブニングドレス姿のベルナデッタは椅子に座り、手鏡を覗き化粧を整えている。その横で、エリカは三面鏡のテーブルに用意した道具を並べ、確認作業に入っていた。

 何せ、特殊とはいえ注射器は医療道具だ。人体に使用するのだから、念には念を入れて不備がないかを確認しなくてはならない。いかにこの世界の医療分野の進歩が遅れているとはいっても、そこはエリカの譲れない一線だ。

 ペン型注射器、その予備が二本。さらに、香水の瓶に偽装した魔法道具の簡易型麻酔スプレー——エリカがこっそり開発してきた医療道具の一つで、効果は調整して人間なら振りかければ一瞬で昏倒するレベルに仕上げてある——、小型試験管に詰めたジェル状の解呪薬リカースの試薬三種。

 無論、これだけではない。

「キリルに頼んで持ってこられるだけ護符アミュレットを持ってくるよう頼んであるから、万一解呪薬リカースが効かなくても大丈夫なはずよ」

 唇の中央に口紅を足しながら、ベルナデッタは訝しむ。

「キリルって、あの騎士の? お姉様、大丈夫かしら? あの人、かなりおっちょこちょいでしょう?」

「それは否定しないけど、私の知り合いの中で高品質な護符アミュレットをすぐに用立てられるのはキリルしかいないから」

「そうなの? まあ、騎士だからツテはあるのかもしれないけれど」

「そうそう、そういうこと」

 エリカは適当に誤魔化したが、まさかドミニクス王子に頼んでキリルに王城の護符アミュレットを運ばせている、など軽々しく口外していい話ではない。病気を治した恩を傘に着て王子を顎で使うと噂されてはたまったものではないし、エリカとしては数少ない友人のベルナデッタにそんなふうに誤解されたくなかった。

「まあ、万全を期したほうがいいわよね……アメリーの血液に『のろい』の残滓が溜まっているなら、って気付いてよかったわ、本当。お姉様の慧眼っぷりに驚くのは今更だけれど」

 ベルナデッタはしみじみと話す。

 つい先日まで、どうやってアメリーの血液を手に入れようか、エルノルドとの夕食会を足がかりにするか、と二人で考えていた矢先のこと、エリカははたとあることに気付いたのだ。

(あれ? ひょっとして、エルノルドの血筋にも『のろい』の残滓ってあるんじゃ……? そもそもエーレンベルク公爵家の末裔なら、先祖は『のろい』なんてしょっちゅうかけられてそうだし)

 となれば、エルノルドの血液であっても入手できれば解呪薬リカース完成のためにはかまわないのだが、さらにエリカはこう考えついた。

(ううん、そうじゃなくって、これはチャンスだわ。今ある解呪薬リカースの試薬が効くかどうか、ついでに護符アミュレットがどんなふうに『のろい』を防ぐのか、『のろい』の残滓に対しても効果があるのかを検証できる。か弱い貴族令嬢のアメリーよりも、健康な成人男性のエルノルドで実験したほうが心が痛まないしね!)

 そこまで考えついた時点で、エリカは自分を褒めたい気持ちでいっぱいだった。さすがに不幸な侯爵令嬢に対して、「あなたの血液には先祖代々かけられた『のろい』の残滓があるかもしれない」などと説明するのは気が引けていたのだ。

 何より、自分に残滓でも『のろい』がかかっていると知れば、『のろい』を畏怖するこの国の人間なら相当な精神的ショックを受ける。それほどに誰かに恨まれている事実、さらにそれが治らないと分かれば、自暴自棄になったっておかしくないのだ。

 なら、まずはエルノルドに説明なり実験をして、その成果を反映させてもっと改善した解呪薬リカースをアメリーへ——となるのは必然だ。それに。

(政略結婚とはいえ、私のベルを下心ありで夕食に誘うような婚約者を、私が必要以上に大切に扱う理由はないし……というか、復讐に燃えるエルノルドは多方面から恨まれている自覚があるだろうから、『のろい』の残滓のことを話したってさほどショックは受けないはず!)

 いい加減、婚約者エリカをよそにベルナデッタへの恋心をあからさまにするエルノルドなんて、少しばかり痛い目を見せたって文句を言われる筋合いはない。嫌いではないが、最初からカケラも好意を向けない相手には、エリカだってそんなふうにも思えてしまうものだ。

(いや、ここは乙女ゲームの世界だし、主人公のベルナデッタがモテるのは分かっているんだけどさ。さすがに私の目の前で態度が豹変されると気分はよくない、っていうかさ……はっ! これが、女の嫉妬!? あーやだやだ、違う違う! 人によってあからさまに態度変えるエルノルドが悪い! そういうこと!)

 臭いものにはフタ、エリカは自分の心の中に芽生えた悪感情をどうにか押し込めて、エルノルドへの罪悪感が湧かない理由にした。

 嫉妬なんて、と思う割には、前世でもエリカは同性異性問わず誰かに嫉妬したことはほぼない。それが恋愛絡みならなおのこと、自分にははるか縁遠い世界の出来事だとさえ思っていた。乙女ゲームの中で起きる恋心が理由の嫉妬、横恋慕や寝取り寝取られななどという奇妙奇天烈な話が、現実に起きるとは思わないではないか、と。

 残念ながら、今、この世界がエリカにとっての現実であり、たとえ乙女ゲームの世界の登場人物であっても血の通った人間だ。魔法薬調剤師という仕事をしているからこそ、エリカはこの世界にも病があり、人は老いて死に、さらには魔法という夢のような力の代わりに『のろい』という災厄があるのだ、と知っていた。

 

 エルノルドの冷淡な態度にもやもやする気持ちを抱くことも、また現実だ。

 それをまだ、エリカは認められていなかった。自分の身に降りかかったことだ、という実感が湧いていなかったせいで、とりあえず苛立ち程度で済ませていた。

 思わず、エリカは頭を思いっきり左右に振った。思い出したくもない感情のことなんて忘れよう、エリカは不思議そうに見てくるベルナデッタへ話題を振る。

護符アミュレットは万一、『のろい』が発現したときのことを想定して用意したけれど、多分大丈夫。『のろい』の残滓を解呪できる可能性の確認も含めてのことだし、ほら……『のろい』も護符アミュレットも作り方が多種多様すぎてどれがどんな仕組みで効くか定かじゃないから、できるだけたくさんの実験サンプルが欲しいだけよ。だから、ここに用意した解呪薬リカースの試薬もあくまで保険。この場でどうにかなることはないと思うわ!」

「そう、そうよね! うん、アメリーの血液なんてどうやって手に入れようかと思ったし、やらなくて済んでよかった。よし、エルノルドのためだと思って『のろい』の残滓の話と血液の入手、頑張るわ!」

「お願いね、ベル!」

 意気軒昂、揃ってやる気満々のエリカとベルナデッタの間に、ほんの少しのすれ違いがあることは、二人ともまだ気付いていない。

 今の目的は解呪薬リカース完成、それに邁進すればいいだけなのだから。

 わずかな違和感を無意識のうちに無視して、エリカとベルナデッタは午後六時半に到着予定のキリルを待つ。

 ところが、そのキリルのもとでとんでもない事態が発生していた。

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