発端は、三時間前に遡る。
現在午後五時前、エリカとベルナデッタは、三つ星ホテル『ノクテュルヌ』のVIPルーム隣控え室にいた。本日午後七時にホテルエントランスで待ち合わせを予定しているエルノルドとの夕食会を前に、ひと足先に乗り込んで準備をしていたのだ。
もっとも、とりあえずライトグレーのイブニングドレス姿のベルナデッタは椅子に座り、手鏡を覗き化粧を整えている。その横で、エリカは三面鏡のテーブルに用意した道具を並べ、確認作業に入っていた。
何せ、特殊とはいえ注射器は医療道具だ。人体に使用するのだから、念には念を入れて不備がないかを確認しなくてはならない。いかにこの世界の医療分野の進歩が遅れているとはいっても、そこはエリカの譲れない一線だ。
ペン型注射器、その予備が二本。さらに、香水の瓶に偽装した魔法道具の簡易型麻酔スプレー——エリカがこっそり開発してきた医療道具の一つで、効果は調整して人間なら振りかければ一瞬で昏倒するレベルに仕上げてある——、小型試験管に詰めたジェル状の
無論、これだけではない。
「キリルに頼んで持ってこられるだけ
唇の中央に口紅を足しながら、ベルナデッタは訝しむ。
「キリルって、あの騎士の? お姉様、大丈夫かしら? あの人、かなりおっちょこちょいでしょう?」
「それは否定しないけど、私の知り合いの中で高品質な
「そうなの? まあ、騎士だからツテはあるのかもしれないけれど」
「そうそう、そういうこと」
エリカは適当に誤魔化したが、まさかドミニクス王子に頼んでキリルに王城の
「まあ、万全を期したほうがいいわよね……アメリーの血液に『
ベルナデッタはしみじみと話す。
つい先日まで、どうやってアメリーの血液を手に入れようか、エルノルドとの夕食会を足がかりにするか、と二人で考えていた矢先のこと、エリカははたとあることに気付いたのだ。
(あれ? ひょっとして、エルノルドの血筋にも『
となれば、エルノルドの血液であっても入手できれば
(ううん、そうじゃなくって、これはチャンスだわ。今ある
そこまで考えついた時点で、エリカは自分を褒めたい気持ちでいっぱいだった。さすがに不幸な侯爵令嬢に対して、「あなたの血液には先祖代々かけられた『
何より、自分に残滓でも『
なら、まずはエルノルドに説明なり実験をして、その成果を反映させてもっと改善した
(政略結婚とはいえ、私のベルを下心ありで夕食に誘うような婚約者を、私が必要以上に大切に扱う理由はないし……というか、復讐に燃えるエルノルドは多方面から恨まれている自覚があるだろうから、『
いい加減、
(いや、ここは乙女ゲームの世界だし、主人公のベルナデッタがモテるのは分かっているんだけどさ。さすがに私の目の前で態度が豹変されると気分はよくない、っていうかさ……はっ! これが、女の嫉妬!? あーやだやだ、違う違う! 人によってあからさまに態度変えるエルノルドが悪い! そういうこと!)
臭いものにはフタ、エリカは自分の心の中に芽生えた悪感情をどうにか押し込めて、エルノルドへの罪悪感が湧かない理由にした。
嫉妬なんて、と思う割には、前世でもエリカは同性異性問わず誰かに嫉妬したことはほぼない。それが恋愛絡みならなおのこと、自分にははるか縁遠い世界の出来事だとさえ思っていた。乙女ゲームの中で起きる恋心が理由の嫉妬、横恋慕や寝取り寝取られななどという奇妙奇天烈な話が、現実に起きるとは思わないではないか、と。
残念ながら、今、この世界がエリカにとっての現実であり、たとえ乙女ゲームの世界の登場人物であっても血の通った人間だ。魔法薬調剤師という仕事をしているからこそ、エリカはこの世界にも病があり、人は老いて死に、さらには魔法という夢のような力の代わりに『
エルノルドの冷淡な態度にもやもやする気持ちを抱くことも、また現実だ。
それをまだ、エリカは認められていなかった。自分の身に降りかかったことだ、という実感が湧いていなかったせいで、とりあえず苛立ち程度で済ませていた。
思わず、エリカは頭を思いっきり左右に振った。思い出したくもない感情のことなんて忘れよう、エリカは不思議そうに見てくるベルナデッタへ話題を振る。
「
「そう、そうよね! うん、アメリーの血液なんてどうやって手に入れようかと思ったし、やらなくて済んでよかった。よし、エルノルドのためだと思って『
「お願いね、ベル!」
意気軒昂、揃ってやる気満々のエリカとベルナデッタの間に、ほんの少しのすれ違いがあることは、二人ともまだ気付いていない。
今の目的は
わずかな違和感を無意識のうちに無視して、エリカとベルナデッタは午後六時半に到着予定のキリルを待つ。
ところが、そのキリルのもとでとんでもない事態が発生していた。