夏至が近くなると、『夏の夜の夢』という喜劇が舞台でひっきりなしに上演されるようになってくる。
婚約を嫌がる女性が発端となって、妖精たちを巻き込んだ大騒ぎになり、そして円満に解決する喜劇は、ノクタニア王国では古い伝説に基づくもの、とされている。すでに妖精はいないし、森のシャーマンやドルイドは衰退して今となっては『魔法使い』としてぼんやり残るのみだ。
この日、ノクタニア王立歌劇団第三小劇場のこけら落としには、もちろん『夏の夜の夢』が上演されていた。ノクタニア王立歌劇団所属の若手俳優が中心となった演劇に特化した新しい小劇場は、自他ともに認めるノクタニア王国芸術最大の
その中には、エルノルドの姿もあった。若手の新興商人はこういう場を使って顧客を増やす、エルノルドがここにいても何らおかしくはない。ただし、そこいらの俳優を上回りかねない上品なルックスをしており、衆目を必要以上に引くことを除けば、だ。
細いシャンパングラスを片手に、商人らしく顧客とその候補を訪ね歩いてあちこちを回り、ようやく壁際に辿り着いたエルノルドのもとに——案の定、招かれざる客がやってきた。
「こんばんは、エルノルド・トラウドル」
その瞬間、エルノルドの首筋の皮膚が泡立つ。聞き慣れない、それでいて
アメジストを思わせる紫の光を湛えた長い金の髪を持つ、細身の青年がやってきた。古典曰く、
「お前は……トネルダ伯爵家のロイスルか」
「へえ、君が僕の顔を憶えてくれていたとは驚きだな。ご機嫌麗しゅう、次期ニカノール伯爵閣下?」
微笑むかつての同級生へ、エルノルドは遠慮なく舌打ちした。もっとも会いたくない種類の、もっとも会うべきではない職業の人間だと唾棄していることを隠さない。
ただの貴族であれば、魔法使いに対して礼を失することのないよう気を遣うだろうが、エルノルドは『
エルノルドはロイスルから目を逸らした。本来なら視界にも入れたくないのだ。
「あいにく、悪趣味な嫌味のやり取りで
「ははっ、僕と会えてそれだけしか思いつかないのか?」
「思いつかないな。お前のような輩が、無意味な行動をしたりはしない。必ず、すべて何かしらの——
魔法使いが、大して親しくもないかつての同級生にいきなり笑顔で接してくるなど、怪しいことこの上ない。
ところが、にべもなく対応されているにもかかわらず、ロイスルは上機嫌だ。
「あっはっは! 魔法使いを前にそこまで虚勢を張れるのは、君くらいなものだ! いやいや、僕は別に、君を気に入っているとかそういうことは決してない。むしろ、
「であれば、もう一度聞こう。用件は何だ?」
言外に「用件がなければ帰れ」と追い払われても、ロイスルの笑みは深まるばかりだ。
ロイスルはエルノルドの隣で、壁にもたれかかる。まるで、さも友人であるかのような振る舞いに、エルノルドは嫌そうに一歩離れた。
だとしても、ロイスルは何ら問題ないとばかりに話しはじめる。
「まあ、少し積もる話があると言っておこうか。『
「例外はあるということか」
「どんなものにだって例外はあるよ。たとえば、僕の靴に泥をかけた辻馬車の御者が、実のところ王城のとある大臣が抱える密偵の一人だった、なんてこともあったからね」
「ふん、よく調べあげたものだ」
「蛇の道は蛇、その手の人材には事欠かないものでね。
そして、それがまんまと罠にはまり——もっとも、相手も引っかかるとは思っていなかったようだが、ロイスルはほんの一瞬呆けてから、予想外の釣果に喜んでいた。
「え、あれ? おや、おやおや? 君、知っていて僕からアメリーを掻っ攫おうとしたわけじゃないのか?」
エルノルドは口を歪ませ、返事をしない。
——失敗した。どうせ知っていることだろうが、表沙汰にするのはできるかぎり遅らせておきたかったのに。
エルノルドがアメリーを一個人、ミニチュアドレス職人として雇うには、当然ながら実家の家長であるアルワイン侯爵の承諾が必要だった。そのため、エルノルドは散々交渉を重ね、『すでに進めている婚姻の成約が完了するまでの間』、『アメリーを王都から出さない』、さらには『エルノルドを含む異性との交友を厳しく制限する』ことでアルワイン侯爵との合意に至った。無論、他にも細則はあるが、些細なものだ。そもそもが、交友関係の制限監視のために派遣されたアルワイン侯爵家の家宰をすでにエルノルドが買収しているため、アメリーがエルノルドの目を盗んで逃亡しないかぎり、それらの条件は有名無実に等しい。
そのすでに進めている婚姻というのが、アメリーと——アメリーも知らないうちに婚約を結んでいた——ロイスルの結婚話であり、トネルダ伯爵家側からの要望で両者とも結婚式直前まで秘密にしている、というものだった。それを聞かされたエルノルドは、当然ながら思うところが多分にあり、
どこまでロイスルが諸般の事情を把握しているか分かったものではない。だからこそ、一つたりとも手がかりとなる情報を渡したくなかったのだが、普段のエルノルドならばしないような凡ミスのせいで、鬱陶しいこときわまりないロイスルを勝ち誇らせることになってしまった。
「まさか、本気で惚れただの言うつもりはないだろう。君はいつも、ベルナデッタ嬢にばかり興味があったんだから」
「黙れ」
「今もそうかい? だったら、力になってやろうか?」
「黙れ!」
短い威圧の叫びは、ほぼ同時にエントランスホールから小劇場内への扉が開かれ、舞台上の俳優たちの大合唱の始まりによってかき消された。
エントランスホールにいた大勢が、「もうそんな時間か」とわざとらしく時計を見る。長くなりそうな話題を切り上げ、聞きたくもない話から耳を逸らすいいきっかけだ。各々は行動を再開し、慌ただしく人々はエントランスホールを縦横無尽に歩きだす。ちょうど招待客のうち途中離脱組と遅刻組のざわつきが重なり、外では車輪の回る乾いた音と、馬蹄が石畳を叩く音が増えていた。
音の
そうして、エントランスホールが少しだけ静まった頃合いを見計らって、ロイスルは本日もっとも重要な
「そうムキになるなよ。君だって商売をしているんだろう? なら、できることなら僕の顧客になってほしいくらいだ。若い女への嫉妬に塗れた淑女、親兄弟への憎悪で破滅を厭わない落伍者、他人を貶めることにしか興味のない道楽者……そんな連中からの依頼なんかよりも、もっと世を揺るがすような面白い話を持ってきてほしいんだよ。
愉悦に浸るロイスルの言葉は、聞くに堪えない。傲慢さを煮詰めたような魔法使いは、他人を欠片も思い遣らず、退屈を紛らわせる道具のように扱う言葉を口にする。
あるいは、貴族の本性というのはそういうものなのかもしれない。エルノルドが異端であり、ロイスルが
——だったら、何だ?
——たとえお前が正しくとも、俺が頷く理由にはならない。
——ああ、もしかするとかのエーレンベルク公爵も、そんなふうに他人をおもちゃか何かのように見ていたから……。
——きっと、そうだ。知りたくもなかったが、俺にはまったく思いつかない考えだった。
ほんの少しだけ、顔も見たことのない祖父の腹の中を垣間見た気がした。あまりにも血と罪禍に塗れすぎて窺えなかった思考の奥底に、一体どんな高尚な理念が隠れているのだろうと思えば、そういうことだったのだ。
それを知れたエルノルドは、感謝の意味を込めて、ロイスルへ反撃ならぬ忠告をしてやることにした。
「性根の腐ったところは先祖とそっくりだな、ロイスル」
「……何だって?」
ロイスルが不機嫌をあらわにする。今度は、エルノルドが愉悦に浸る番だった。
「魔法使いは、ノクタニア王国において権勢を極めることなどできない。それは歴史が教訓として語り、魔法使いたちに権力を与えてはならないという不文律を存続させている。