すでにアメリーは、この家で一番日当たりのいい南向けの応接間で、持ってきた作品をテーブルに並べて待っていた。ここだけは革張りの真新しいソファが置かれ、壁紙も白地に明るい花柄が入ったものに張り替えてあった。窓は採光のために大きく、
エルノルドを見るなり、アメリーはやっと微笑んだ。
「待たせたな」
「いいえ、ちょうどよかったわ。これを見てほしかったの、力作よ」
アメリーの視線の先にあるのは、人形用のミニチュアドレスだ。テーブルにベルベットの赤い布を敷き、その上にライトベージュのドレスが広げられていた。ちょうど、窓から差し込む光が照らし、ドレスにふんだんに使われた薄緑と淡い黄色のレースの絹糸が輝く。
ライトベージュの艶綿生地はほぼワンピースの形で、残りは襟、袖、裾に緻密な蔓草模様のレースが何重にも使われている。そのため透けることはなく、重さもあるのだが、アメリーの持つ縫製の腕前により軽やかな印象を与えていた。具体的には繊細な編みレースの模様合わせと、ごく細い絹糸を使っての自然に見えるレースを継ぐ編み技術によって、だ。布に縫わずに小さなレース同士を編んで継いでいき、その配置とバランス、グラデーションを調整しながらの作業となると、どれほど時間がかかったか。オーダーメイドだからこそ可能な手間暇のかかる作業といえるだろう。
そういう意味では、アメリーは職人気質であり芸術家肌、完璧を期すためにはとことん突き詰めて努力することを厭わない。ただ、彼女はそれを苦痛と思っていない。このミニチュアドレスを作ることが楽しくてしょうがないのだ。
その証拠に、今のアメリーの表情は晴れやかだ。
エルノルドは新作のミニチュアドレスを手に取り、細部まで眺める。指先でレースにも触れ、摘んでみる。小手先の技術で耐久性を犠牲にしていないか、という心配は杞憂だった。そんな杜撰な真似は、アメリーに限ってはありえないのだから。
「ふむ、注文どおりだな。襟元や袖、裾にレースを多めにあしらったドレス、薄緑が映えるよう淡い黄色を混ぜる……想像以上の出来栄えだ」
「よかったわ。でも、エーレンベルク公爵夫人クセニア様のご依頼と聞いていたけれど、流行のドレスを参考にして作っても大丈夫だったのかしら? 年配の方にはあまり受けがよくない、ということはないの?」
「それは問題ない。その公爵夫人自ら付けた注文だからな」
「そう……いくつか最高級のレースの切れ端があったから、ふんだんに使ってみたわ。手触りが違うでしょう?」
「ああ、これは門外漢の俺でも違いがはっきりと分かる」
エルノルドの素っ気ない返事にも、そうでしょう、とばかりにアメリーはご満悦だ。彼女もエルノルドの愛想のなさに慣れてきて、エルノルドは正直だから商品に関することでは嘘を吐かない、と信頼するようになってきたのだ。
だからこそ、
常連であるエーレンベルク公爵夫人クセニアからの依頼で、注文どおり人形用のミニチュアドレスを仕立てる。それ以上のことは、アメリーが知るべきではないからこそ、エルノルドは話していないだけだ。
そこさえわきまえるのなら問題はない——そう、それ以外のことでなら、アメリーはいくらかエルノルドへ心を許して、雑談の中で心境を吐露するようになっていた。
「ねえ、エルノルド」
「何だ?」
「私は」
アメリーは一瞬、言葉に詰まっていた。どう説明すればいいのか、考えあぐねたようだ。
ミニチュアドレスをベルベット生地へ置いて、エルノルドは待つ。
やがて、アメリーは嬉しそうに語りはじめた。
「私は、今でも夢みたいなの。ずっと憧れていた自由で明るい生活、誰の嫉妬や監視の目も気にせずに済む。それに、イスティエ子爵家のメイドや御用商人のリサ夫人も、イスティエ子爵邸を離れてからもよくしてくれている。使用人のいない一人暮らしは大変だけれど、あなたの紹介してくれたおばあさんが身の回りの面倒を見てくれているから、とても助かっているわ」
「ああ、彼女からも君の様子を聞いている。君があまりにも家事に慣れていなくて危なっかしいから住み込みで働きたい、と申し出があった」
「もう、おばあさんったら、そこまでおっしゃらなくてもいいのに」
「嫌なのか?」
「いいえ、かまわないわ。私も、おばあさんが仕事を終えてから、夕暮れの道を不自由な足で一人で歩いて帰させてしまうのは心配だったもの」
「そうか。なら、そう伝えておく。彼女の住み込みの準備を整えておいてくれ」
「ええ。そういえば、おばあさんのお名前、聞いていなかったわ。なんというお名前なの?」
今度はエルノルドが言葉に詰まる番だった。しかし、アメリーがおばあさん——エルノルドの実母、エレアノールの乳母だった過去を持つ老婆——を知るとも思えなかったため、仕方なく今の名前を教える。
「マリステラだ」
「まあ、変わったお名前ね」
「昔、流行った名前だと言っていた。名字までは知らない、本人に聞いてくれ」
「分かったわ。彼女、あなたの親戚なの?」
「そのようなものだ。貴族には色々とあるだろう、それだと思ってくれ」
アメリーの返事は、「ふぅん」の一言だけだった。お行儀よく「そこまで私は興味ありませんよ」と示した形だ。
実家であるアルワイン侯爵家から離れたアメリーの一人暮らしは、実現不可能というわけではなかった。エルノルドの名義で王都でも治安のいい地域にあるアパートメントの一室を借り、おばあさんことマリステラをお手伝いに派遣しておく。生活に不自由しない給与を与え、作業に没頭できる空間を作っておけば、空回りしそうなほど張り切るアメリーをマリステラが上手く導いてくれるだろう。
果たしてエルノルドの予想どおりにはなった。唯一の問題はアメリーが一度たりとも家事をしたことがなく、壊滅的なまでに料理が下手だったことだ。どれだけ市井の働く一般人女性になろうとしても、それだけはどうにもならなかったのだ。あの寛大で愛情深いマリステラが住み込みでの手伝いを自ら提案し、事情を話しながら深刻なため息を吐くほどに、だ。
それはさておき、アメリーは他にも持ってきていた作品を三つほどテーブルに並べ、エルノルドはいつものように検品する。どれも文句のない華やかな出来栄えで、きっちりと期日も余裕を持っての納品だ。雇用主のエルノルドの口からは、褒め言葉しか出ようがない。
「よし、完璧だな。君の仕事はいつも丁寧で迅速だ、信頼に値する」
「お褒めにあずかり光栄だわ。他の作品はもう少し待ってちょうだい、ちょうど、いい布があるとリサ夫人から連絡があったの」
アメリーが軽やかに別の作品について語ろうとしたそのときだった。
コツン、コツン、と窓の木枠を叩く音がした。エルノルドとアメリーが振り向くと、窓の外に一羽の白い鳩がいる。その右足には、小さな筒状の袋が取り付けられていた。
「鳩?」
「ああ、連絡用の
エルノルドは窓を開け、鳩の足の袋からくるくると丁寧に巻いた小さな手紙を取り出す。それが終わると、鳩は用事は済んだとばかりに飛び去った。
手紙に記された短い文章を読んで、エルノルドがわずかに首を傾げる。アメリーはそれを見逃さなかった。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。不可解だと思っただけだ」
「でも、あなた、嬉しそうよ?」
「気にしないでくれ。それよりも」
「婚約者からのお誘いとか?」
「断じてそれはない」
あまりにもきっぱりと断言した——実態はどうであれ、
「ああ、いや、彼女は俺に何かを要求したりはしないだろうし、多忙だからな」
「そ、そう。びっくりしたわ」
「すまない。とにかく、君は俺の婚約者のことなど気にしなくていい」
「あなたがそこまで言うなら、極力考えないようにするわ」
「助かる」
エルノルドは気付いていない。アメリーに非常に気遣われていることに気付いていない。(大丈夫かしら。エルノルドのことだから事業を優先して婚約者を放っておきそうだわ。泣かせてしまっても何が悪いのか分からないなんて言いそう、婚約者の方も可哀想に)とアメリーは顔も知らないエリカのことを同情しているのだが、あくまで
いたたまれない沈黙がやってくる前に、エルノルドは強引に話題を変えた。
「何度も言うようだが、もしアルワイン侯爵家から脅迫や強要をされたときは、真っ先に俺を頼るように。君をみすみす渡したりはしない」
「頼りにしているわ、
「ああ。必ず助けよう、約束する」
エルノルドは至極真面目に答えたつもりだった。
ところが、アメリーは堪えきれずに笑ってしまう。
「ふふっ、嫌ね、エルノルド。そういうことは気のない女性に言うものではないわ。でないと、本気にしてしまうもの」
「そんな機微を俺に期待しないでくれ。面倒で嫌いなんだ、色恋というのは」
「あなたの婚約者は大変ね」
「だろうな」
やはり、エルノルドは気付いていなかった。
アメリーから向けられる淡い好意の視線に、彼が最後まで気付くことはないのだ。