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第16話 エルノルドの決意-2

 ある冷えた夏の入りの朝、エルノルドは目を覚ました。見上げる天井は彼が王都でいくつか借りた事業用拠点、彼の立ち上げたエレアノール商会で使用する民家の一つであり、本来エルノルドが見上げるべきニカノール伯爵邸の寝室ではないし、天蓋付きベッドでもなければ暖かな毛布一枚すらない。古びたソファに横になり、薄暗い室内で、そのまま仰向けで眠っていたのだ。

 長年の汚れで黒ずんだ木の天井は、当然シャンデリアなど備えられず、この部屋はただの事務室だ。厚手のカーテンを開ければ、階下にはすぐ小道が伸び、真正面には窓辺に洗濯物を干しっぱなしの別の民家が軒を連ねている。

 エルノルドは自分の手でカーテンを窓の脇に留め、空腹を慰めるために外へ買い出しに出かけようと、まずは姿見で身なりを整えることにした。

 そう、ここにはニカノール伯爵家の使用人などいないし、エレアノール商会の雇う人々はまだ出勤していない。伯爵令息とは思えぬほど、エルノルドは大抵のことならば自分のことは自分でできる。それこそ、料理洗濯掃除から、書類偽造に商談交渉まで、差し当たってできかねることは暴力沙汰くらいなものだった。それも、表向きの伯爵令息としての体面維持と、ニカノール伯爵家の家名に傷が付くことを避けるためだ。

 エルノルドは壁掛けの、身長ほどもある長方形の鏡の前に立つ。濃茶色の髪は少し伸びてきて、後頭部で一つ結びにできそうだ。まとめて手櫛で髪を後ろに流そうとすると、グレーメッシュの一房が額に垂れてきた。

 整った顔立ちの青年はその猛禽類を思わせる鋭い目つきから、貴族らしくない、と良し悪しに関わらず他人から言われてきたものの、それが今や商会の代表としては好都合だった。気品ある所作は隠せないが、使う言葉は労働者階級のものを選べばいいし、目つきの鋭さから傭兵上がりに間違えられたこともあるほどだ。

 もっとも、彼の顔立ちや高身長とスタイルの良さはどこからどう見ても上流階級のものなのだが、ニカノール伯爵令息とバレないかぎりは自身の身分を漏らすこともないから問題ない。見た目で判断しようとする者は、せいぜい困惑していればいいのだ、くらいにエルノルドは思っている。

 エルノルドは仕立てのいい綿シャツとスラックス、それに薄手のくたびれたコートジャケットを羽織って首元に綾織のショールを巻き、口元まで隠す。余計なアクセサリーや身分を悟られるようなものは身につけず、コートジャケットの懐にある硬貨を数え、道を下って角にあるパティスリーでいくつパンを買うか計算しながら、階下に降りて玄関の木製扉にくっついた真鍮製の取っ手に触れたそのときだった。

 玄関扉がノックされ、若い女性の声が聞こえた。

「おはようございます。誰かいらっしゃいますかしら?」

 そのか細い声に聞き覚えのあるエルノルドは、応答した。

「今開ける。扉から離れてくれ」

 まさか挨拶を口にした直後に反応するとは思っていなかったのか、外では「え!?」という短い驚きの声があった。

 数秒待ってから、エルノルドは簡素な鍵を回して、重たい音を響かせる木製扉を押し開けた。押入ってくる強盗を防ぐため、ノクタニア王国では外開きの扉が主流だ。そのせいで公道を歩く人にぶつけただの勝手にぶつかっただのという争いは絶えないが、ゆっくり開けば問題ないし、頑丈な木製扉は多少人がぶつかったところで壊れるような代物ではない。

 扉が開き、外の光が入ってくると同時に、女性の姿がエルノルドの視界に入る。

 分厚い白の日傘を閉じ、陽の光の下に現れたのは、夏だというのに頭からショールを被った人物、もとい淑女、アメリー・アルワインだった。

 アメリーは落ち着かない様子で、エルノルドへ何かを言おうとしていたが、すぐにエルノルドはアメリーの日傘を持たない左手を取って室内へ引っ張る。迎え入れるにしては少々乱暴に、中へ入ったとなれば急ぎ玄関の扉は閉められた。

 エルノルドは険しい顔で、アメリーへと注意する。

「こちらから出向くと言っておいただろう。君が来たところで荷箱一つも運べないんだ、下手に歩き回られると先日のように尾行されるかもしれないんだぞ」

 強盗の類に襲われるかもしれない、そうなればどうなる——そこまで叱責する必要はない、と冷静になったエルノルドは、伏せ目がちにしょぼくれた美しい令嬢を見て後悔した。

「ご、ごめんなさい。私、そこまで気が回っていなくて」

 エルノルドは首を横に振る。

「……いや、すまない。君の気持ちを考えていなかった。わざわざ、頼んでいた作品ができたことを報告しにきてくれたんだろう?」

 もしエリカがエルノルドのその言葉を聞けば、目を剥いて驚くことだろう。エルノルドが好意を寄せていない女性にそんな気遣いをするなんて、と。

 エルノルドはおおよそ誰に対してでも当たりがきつい。本人は他人に好かれようなどと微塵も思っていないし、放っておいても自分勝手にエルノルドへ好意を寄せる人間が多すぎた。そして、そんな人間たちは例外なく欲深かったため「好意を寄せてくる人間は嫌悪すべき連中だ」とまでエルノルドは思っている。

 なのに、

 ただ、エルノルドに、親の気を引こうともがく子どものようにだけだ。

「ええ、そうなの。これを見てほしくって、つい」

 落ち込みを隠せないアメリーが、無理に明るく振る舞うさまは、エルノルドの目から見ても痛々しかった。エルノルドはついと目を逸らし、奥の階段を指差す。

「二階の南の部屋に行こう。あそこが一番明るい。手を洗ってくるから先に行っていてくれ」

 踵を返し、エルノルドは洗面所へ向かう。できるだけ急いで洗面所に入って扉を閉めたあと、階段をヒールが軽く叩いて昇っていく音が聞こえてきた。

 エルノルドは、両拳を握り締めた。

 後悔が胸を締めつける。、と思う反面——、とも思う。

 エルノルドの知る貴族の女性というのは、図々しいものだ。誰よりも欲深くあろうとしているかのごとく貪欲で、誰かへの嫉妬や怨恨をいつもどこかに持っていて、自分は美しいのだ、美しくあるべきなのだ、と思っている。そんな女性たちを、エルノルドは一言でこう表現する——、と。

 貴族の女性たちは本気で思っているのだから、何もかもが腹立たしい。自分たちが何を欲してもいい、それだけの身分や能力がある、と思い込んでいるのだ。生まれだけでその地位についておきながら、なんと厚顔無恥なのだろうか。生まれてこのかた鏡を見たこともないらしい、とエルノルドは常々吐き捨てたくなる気持ちを堪えている。

 なぜなら、真に美しく、能力がある人物ほど、己を贔屓していいなどと思わないものだ。他人よりも自分が優れている——それがもし事実だとしても——として、だからといって自分のほうが上だなどと思ってはいないのだ。古今東西、あらゆる賢者がそう忠告しているにもかかわらず、人類のいわゆる上流階級の連中は未だ受け入れられていない。素直に諫言を容れる器量がないままなのだ。

 そのせいで、エルノルドの母エレアノール、そしてアルワイン侯爵令嬢アメリーは、謂れのない不自由を強いられてきた。それをエルノルドは、厳しく非難したい。彼女たちを貶めてきた人間たちに、相応の罰を与えてやりたいと憤っている。

 なのに、エルノルドはついさっき、アメリーにどんな態度を取ったというのか。

 彼女たちを貶めてきた人間と、同じようなことを口にしなかったか?

 まるで己が上で彼女が下であるとばかりに、頭ごなしの叱責を加えようとしなかったか?

 嫌っている人間たちとついさっきのエルノルドの間に、どのような違いがあったというのか。

「分かっている、そんなことッ……クソッ……!」

 エルノルドは、吐き気がした。自分自身が、他人の人生を弄ぶような連中と比べられそうになったという事実が、めまいがするほど腹立たしい。潔癖だ、心配性だ、と言われようと、そればかりは許せなかった。

 やっていいことと、やってはいけないこととの線引きを己に徹底させなければならないのは、放っておけば線引きが曖昧になっていくような堕落した人間だからだ。本気でそう信じているエルノルドだが、幾度もの深呼吸のあと、ようやく胸の締めつけが収まってきた。怒りによる興奮が悟られないよう、蛇口を捻って冷たい水を溜め、顔を洗う。

 濡れたショールを脱衣カゴに放り出して、壁に備え付けの棚に積まれたタオルを一枚引っ張って顔を拭き、やっと一息ついたところで気を引き締める。これ以上、アメリーを怖がらせるような真似はしない、と己に誓う。

 自分は、彼女たちを貶めるような人間とは違うのだ。そうはならない、そうあってはならないと今一度脳に叩き込み、エルノルドはコートジャケットを脱いで手に持って、アメリーの待つ二階の部屋へとやっと向かった。

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