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第16話 エルノルドの決意-1

 ——顔も見たことのない実母に恋焦がれる男というのは、我ながら女々しいと思っている。

 ニカノール伯爵家の嫡男として生まれたエルノルドは、自他に厳しい人間だった。

 それゆえに、伯爵でありながら他人の顔色を窺って生きていく気弱な父を嫌悪し、そんな父を咎めないおおらかな母——エルノルドが十を迎える前に血縁関係がないと分かった継母だが——に不満を持っていた。父母のどちらも才気さいき煥発かんぱつなエルノルドには似ておらず、しかし父とは同じ髪色、目の色をしていたために誰もがこう言った。

「エルノルドは、容姿はしっかりと父親に似ているのに、性格は本当に自由じゆう闊達かったつなニカノール伯爵家らしくない先鋭せんえいさを持っている。これは母君も苦労なさっているに違いない、まったく才能ある若者を育てるのは苦労するものだ」

 他人はそう気楽に考えるものだ。たとえ貴族であっても、仲のいいニカノール伯爵夫妻の間に不義を疑う者はほとんどいなかったし、飛び抜けて才気溢るるエルノルドは突然変異的に現れただけだと受け取った。家庭教師や貴族学校の教師も同じで、エルノルドがあらゆる分野で貴公子にふさわしく頭角を表しても、何ら——エルノルドと実母の実家であるエーレンベルク公爵家との繋がりを見抜ける者は存在しなかった。

 そもそも、エルノルド自身、ニカノール伯爵家が自分の家であると思ったことはなかった。父も母もあまりにもエルノルドと性分が異なり、親類を見渡しても同じ気性の者の昔話さえ聞いたことがない。よくもまあ、一伯爵にすぎない臆病な父が、国内屈指の大貴族エーレンベルク公爵家のご令嬢を射止めたものだ、と今でもエルノルドは運命のイタズラを呪ってしまう。

 それゆえに、エルノルドは舞踏会が嫌いだった。実の父母が出会った場が嫌いで、そのせいで生まれた自分は不幸な境遇にあると無責任な父母を責め、そして知ったのだ。

 母——エレアノール・カンタン・パトリシア・アニェース・ラ・レモニア・フォン・エーレンベルクは、己を縛るエーレンベルク公爵家から逃げたかったのだ。正確には、長女エレアノールを偏愛する父の現エーレンベルク公爵から離れたかったのだという。

 現エーレンベルク公爵の血を継ぐ数多くの子女の中で、もっとも美しく、もっとも聡明で、その儚げな雰囲気からまさしく深窓のご令嬢の肩書きにふさわしいエレアノールは、実のところ父である現エーレンベルク公爵が嫌いだった。エレアノールの実妹や異母妹たちは政略結婚の道具として惜しげもなく手放され、わずか五歳で婚約、隣国貴族へ嫁に出された者さえいる。なのに、エレアノールだけは十八を前にしても一向に婚約の話さえなく、それどころか貴族だけでなく使用人さえも男性となればエレアノールに近づけさせないという現エーレンベルク公爵の意向により、エレアノールは異常なほど自由を制限され、誰とも出会わないようにと年中屋敷に軟禁されている状態だった。

 かつてのエレアノールの乳母を探して密かに話を聞き、その有り様を耳にしただけでも、エルノルドは吐き気を催すほどの気味悪さを覚えたが、まだ話は続くのだ。

 昔日せきじつ、外の世界に憧れるエレアノールを憐れんだ乳母は、一度だけでもと舞踏会に送り出した。こっそり自分の昔のドレスやアクセサリを貸し、見目麗しく整えて、乳母の遠縁であるカレンデュラ公爵邸で行われる舞踏会に参加させたのだ。それはエレアノールたっての願いでもあり、それが原因でのちに乳母はひどく叱責され、エーレンベルク公爵家から解雇されるのだが——それでも、我が子のように愛しいエレアノールの願いを叶えてやりたかったのだろう——とにかく、そのたった一度の舞踏会で、エレアノールは未来のニカノール伯爵と出会った。

 恋に恋する乙女たちがその馴れ初め話を聞けば「それは運命の出会いだ」、「女神様の思し召しだ」などとロマンスを感じるかもしれない。

 あるいは、その前後の悲劇を目の当たりにして「世界はなんて残酷なのかしら」と嘆くだろう。

 カレンデュラ公爵邸での舞踏会のあと、エレアノールは半年の間に何度か父の目を盗んで公爵邸を抜け出し、未来のニカノール伯爵との逢瀬を楽しんだ。乳母の助けあってこそだが、深窓のご令嬢だったエレアノールも目的ができたためか、自ら進んでカゴの外へ出ようという意思を持ちはじめたのだ。もともと賢い彼女は、人目を盗む程度造作もなく、エーレンベルク公爵家の使用人たちもそんなエレアノールを密かに応援していたことは事実だ。

 ただ、それが現エーレンベルク公爵の耳に入ったとき、罰を受けたのはエレアノール本人と乳母だけだった。

 十五歳のある晩、エルノルドは自力で築いた伝手を辿って、エレアノールのかつての乳母と直接会ってその話を聞いたのだが、その際に見た乳母の姿は無惨なものだった。

 フード付きのコートで隠した彼女の体の右半身は、頭からつま先まで無数の火傷だらけ、帽子で隠していた者の両の耳はなく、杖を突いてやっとぎこちなく歩くのは左足が不自由だからだ。許可を得て、エルノルドがスカートをわずかに上げて乳母の左足を見てみれば、本来ならばまっすぐな膝から下の骨が、不自然な形に折れ曲がっていた。複雑骨折のあと、適切な治療を受けなかったためだと乳母は語ったが、のではなく長期間のだろう。

 エレアノールの乳母が、憐れみからエレアノールにいっときの自由を与えたがために、現エーレンベルク公爵からどのような仕打ちを受けたのかは、口舌に尽くしがたい。

 だからと言って、現エーレンベルク公爵の罪を問うことは困難だ。相手はノクタニア王国屈指の大貴族であり、その権勢はときに国王さえも凌ぐ。一使用人が被害を訴えたところで、どれだけ証拠を揃えたところで、誰も見向きもしないだろう。

 それよりも、と乳母はエルノルドにこう訴えた。

「どうか、エレアノール様をお助けくださいませ。あなた様に過酷な運命を与えた元凶たる私がこのようなことをお願い申し上げることは甚だ身勝手だと承知しております、しかし、エレアノール様にもあなた様にも、本来はなんら罪などないのです。なぜ普通の令嬢としての人生を望んだだけのエレアノール様が、あのような目に遭わねばならないのか。未だ私は、それだけのために女神を憎んでいるのです」

 床に膝を突き、必死にエルノルドへ祈り訴える老婆と化した乳母は、あまりにも惨めで、憐れだった。

 それに、乳母は——本来ならばどこかの貴族の子女であり、公爵家令嬢の乳母を務められるほど確かな身分の淑女だったはずだ——一介の庶民になり下がり、エルノルドが探し当てるまでスラム街の片隅に座り込んで物乞いをしていた。エレアノールに自由を与えなければ、彼女は裕福で充実した人生が待っていただろうに、今や見る影もない。

 己の中に渦巻く感情に整理がつかないエルノルドは、ただエレアノールの乳母へ思ったことを尋ねるしかできない。

「なぜ、そうまでして母を自由にしたんだ? 母は憐れだっただろうが、あなたの人生と引き換えにしてまで、自由を与えなくてはならなかったのか? 今のあなたはあまりにも……むごいことだ。そして、誰もが幸せになったわけではない。なのに、なぜ?」

 エルノルドがそう言ってしまったあとで後悔しても、もう遅い。答えなど、当然のように出ているのに聞いてしまったのだ。

 乳母は、まだ理解の及んでいない子どもを諭すように、エルノルドへ語る。

「エルノルド様、私はエレアノール様にだけお仕えする身でした。病で二子を亡くして、実家からも婚家からも不要とされた私でしたが、エレアノール様の乳母となって以降は本当に、あの方にだけこの身を捧げてお仕えしようと誓っていたのです。私の身の上を知ったあの方は、私を母のように慕ってくれました。そのお気持ちに応えたかっただけなのです」

 それは忠誠かもしれないし、愛情でもあったかもしれない。

 エレアノールの乳母は、エルノルドが思う以上にエレアノールの幸せを願っていた。もちろん、何が彼女にとっての幸せかは個々人の意見が分かれるところだろうが、少なくとも乳母は「エレアノールに自由を与える」ことが彼女のためになると思ったのだ。

 エルノルドは顔もかけらも知らない、実母エレアノールと長く過ごしてきた乳母がそう考えたのだ。ならば、エルノルドよりも彼女のことをよく理解して、その決断に至ったのだろうと思うほかない。

 さらに、もう一つ——表には出せない理由も存在したのだ。

 乳母は、目を伏せて、肩を震わせながらエルノルドへ縋るように訴えた。

「それに、エーレンベルク公爵がエレアノール様を見る目は、明らかに異常でした。あれは、娘を見る父の目ではありません。早く逃して差し上げなければ、と常々、あの屋敷にいた女中の誰もが切に願うほどに。申し訳ございません、私は、あの方をお救いすることも叶わず、おめおめと生きさばらえてしまいました……」

 わずかな嗚咽を漏らしながら、乳母はそのまま床に倒れ込むように泣き崩れた。

 しばし、エルノルドは憐れにもひどく年老いた乳母を見下ろして、考えていた。

 ——なぜこんなことになったのだろう。

 ——それぞれの人があるべき立場で、あるべき身分にふさわしい行いをしていれば、悲劇などなかっただろうに。

 ——そうすれば、エレアノールは幸せな結婚生活を、乳母はそれを見届けて隠居を、自分は……最悪生まれずとも、こんな歪んだ不幸の数々を知らずにいられたのに。

 エルノルドは、自らの胸中で渦巻く多くの感情の名前を把握することを諦めた。あまりにも愛憎どころか悲嘆怨恨の交雑した種が至るところから芽生え、それぞれの感情の根っこが尋常でないほど絡まってしまって、たとえ感情を失ったとしてもこの不快きわまる坩堝のような記憶は、一生エルノルドの脳裏に残りつづけるだろう。

 なんにせよ、エルノルドはエレアノール・エーレンベルクの乳母から自身の出生の真相を聞いたその晩、決めたのだ。

 ——必ず、この不条理の根源を糾弾し、すべてを正しくしてやる。

 エルノルドは、己の実の祖父への復讐と、実母の救出を心に誓ったのだった。

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