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第14話 ドミニクス王子-1

 ドミニクス王子の寝室は、季節の花と香り、様々な形の花瓶で溢れていた。今の時期だとピンクとオレンジが混ざったようなコクリコ、クリーム色に近い白いバラ、天井から垂れ下がる菩提樹リンデンの白い小さな花々、そしてそれらよりも多く添えられているのがかすみ草だ。床が見えないほどのかすみ草の下には、ガラスや磁器の花瓶に木製の台がついており、万が一ドミニクス王子の具合が悪くなって倒れてもクッション代わりとなって破片が飛び散らないよう工夫されていた。

 王子ともなれば、書籍や絵画、趣味のものの一流どころが部屋に集まっていてもおかしくはないのだが、それらは病気でつらいドミニクス王子の気に触るかもしれないから、と王妃の命令で撤去されていた。もし本を読みたければ別室に、絵画は持って来させて、趣味である切り絵コラージュは時間を決めて……と何もかもが過保護に気遣われていた。

 それもそのはずだ。今、ベッド脇でエリカが脈を取っている白い手首は、エリカのものよりも細く、とても成人男性の手首の太さではない。いくら病気が治ったといっても、それはあくまでエリカの作った特効薬によって病巣が失われたにすぎず、長年病弱だった体がいきなり健康体になるわけではないのだから、これまでと生活が一変することはない。

(かわいそうだけど、まともな生活ができるまであと数年はかかるでしょうね。同世代の人たちが活躍していても、自分はベッドの上で寝ているしかないなんてひどく心を病んでもおかしくなかった。でも、死ぬよりは絶対にマシよ)

 そもそも、ドミニクス王子が病気の体を押してでも貴族学校に入学する、というシチュエーション自体、危険極まる行為だったのだ。この世界にやってきて、ドミニクス王子と接触してエリカは初めてその病状のひどさを目の当たりにし、死んでもおかしくない状態でドミニクス王子は懸命に『年相応の普通』であろうとした、ただの青年だったと知った。だから、エンディングやルート云々という話はさておいて、真っ先に助けた。それができると確信するまで、決して気を抜かなかったほどだ。

 シナリオの時系列的には、とっくに高確率で死んでしまっているはずのドミニクス王子は、何とか今も生きている。予断は許さないが、快方に向かっているのだ。エリカは、自分が救った命を前に感動すら覚える。そして、己が間違っていないのだ、と信じられる。

 エリカは弱々しいものの、以前よりはずっとマシな手首の鼓動から手を離し、そっとドミニクス王子の横たわるベッドに戻してから木製トランクを開けて、ベッドへと向ける。

 中には、整然と並べられた大量の薬包が、白い綿紐で縛られていた。一つひとつ、エリカが調剤した魔法薬を包み、手ずから正確無比の分量に仕分けたものだ。小数点以下であっても分量が異なれば、その薬効は異なる可能性が生じる。魔法薬は効果が絶大であるだけに、その分量を一切間違えるわけにはいかない。

 きっちりと木製トランクに収まる薬包の塊は、ドミニクス王子やキリルへ安堵感を与えることだろう。エリカが決して手を抜いていない、という証でもあるのだ。

「こちらが、新しい魔法薬です。前のものに改良を加え、より体力回復に効果があるよう処方しました。すでに病のもとはお身体にはございませんが、今はまず体力をつけなければなりません。病後でまだお身体は衰弱したままですので、風邪など他の病にかかりやすい状態ですから」

 エリカの説明へ、ドミニクス王子は真剣に耳を傾ける。薬や病気の説明など、何度もされると患者は鬱陶しがるものだが、ドミニクス王子は毎回姿勢を崩さない。命が懸っているから、というだけでなく、きちんと真面目な性分が表れていた。

「ありがとう、エリカ。いつも助かるよ」

 感謝の言葉に、エリカはいつも同じ言葉を返す。

「とんでもない、私は魔法薬を処方しただけでございます」

 いつしか、それに対してもドミニクス王子はこんなことを付け足してきた。

「うん……あと、そんなに畏まらなくていい。いつも言っているだろう? こんなにも僕のために力になってくれた君だし、友達のようなもので」

「そういうわけにはまいりません。私はあくまで魔法薬調剤師、殿下のために手を尽くすのは当然の義務です」

「お堅いなぁ」

 そんなふうに、快癒に近づくにつれささやかな変化が生まれ、ドミニクス王子にはおどける元気さえ出てきていた。エリカがチラリと横目で見たキリルは、グッと指先で両の目頭を押さえているほどだ。

 エリカは、木製トランクから取り出したドミニクス王子のカルテに本日の所見と処方薬について書き込み、魔法薬調剤師としての職責を果たす。これまで数年、同じことをしてきた。実に象の歩みのように遅々とした進歩だが、次回の面会までにどのような変化が現れるか、焦らず待つしかない。

 寝室に出入りする侍女たちが、ティーセットを持ってきた。音のうるさいカートは使わず、足音を立てずに銀のトレイに乗せたティーセットをベッド脇にあるテーブルへ配膳する。ついでに、服薬用の水差しとガラスコップも新しく取り替えられていた。

 侍女たちが去ると、ドミニクス王子はキリルの名を呼ぶ。

「キリル」

「はっ!」

 それだけで意図を察したキリルが、寝室の扉を閉めにいく。木製の扉に女神の肖像を描いたガラスが嵌め込まれているそれを、分厚いカーテンがかかった衝立でピッタリと隠した。これでドミニクス王子のウィスパーボイスは外に聞こえず、エリカも気をつけて小声でしゃべれば盗み聞きされることはない。

 速やかに、キリルが低い戸棚から一冊の牛皮革ファイルを持ってきた。王城内で重要な書類を回覧するときに使われるなめし革のファイルで、何十枚もの紙の書類が綴じられており、若干分厚い。キリルはドミニクス王子ではなく、エリカへ直接渡す。

 ドミニクス王子は、その牛皮革ファイルが何であるか、もちろん知っている。

「それがニカノール伯爵家の内情調査に関する報告書だ。僕の名前で、信頼のおける官僚に頼んだ。受け取ってくれ」

「ありがとうございます。拝見します」

 エリカは落ち着き払って、牛皮革ファイルを受け取り、胸の前で開く。早く中を読みたい気持ちを抑え、しっかりと一文字一文字を脳みそに刻んでいくように、両目を現れた文章へと集中させる。

 以前、キリルを通してドミニクス王子へ依頼していた、エルノルドの実家であるニカノール伯爵家に関する調査の結果報告書だ。わざわざ頼んだのはエリカ程度では調べられることなどたかが知れているからだが——一般的に貴族の家の内情を探るのは敵対行為と見做されることさえあるため、たとえ王子という身分があっても慎重を期す必要があった。

 そのあたり、ドミニクス王子は王子らしくわきまえており、信頼できる人材を選んで、何重にも逆探知されないよう配慮して調査したという。信頼のおける官僚のサインが入った書類には、彼らにも褒賞を与えている、として五つの調査人員の名前が記載されていた。

 エリカは次のページへ、次のページへとだんだん素早くめくっていく。持ち前の集中力を発揮して、機械のように瞬時に文章を読み解いていく。いわゆるゾーンに入った状態で、すべての文意を漏らさず頭に叩き込んでいく。前世からその集中力と記憶力は群を抜いており、エリカ自身はさほど己の頭脳全体が優れているとは思っていないが、その分野だけは人よりも優れている自信があった。

 それが、誰かを救うために必死であればあるほど、発揮されている。その自覚はないが、あっという間に書類へ没入したエリカを邪魔しないよう、ドミニクス王子とキリルは黙って息を潜めている。

 その甲斐あって、エリカは期待していた名前を書類からやっと見つけた。

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