どこかに手を、と思ってもどこにも取っ掛かりはない。ドミニクス王子の
バキャ、という破裂音が響いた。その音が耳に届いた瞬間、エリカの背中と床の間には腕が挟まり、大きな手がエリカの後頭部をしっかりと掴むように保護していた。
そして、破裂音は三度、四度と続いて、反射的に目を閉じてしまっていたエリカがゆっくり瞼を開けると、目の前には硬そうな短い黒髪が迫っていた。一瞬、それが誰かの髪の毛だとは思わず、ギョッとしたほどだが——冷静になったエリカは、誰かに助けられたとやっと思い至り、それから叫ぶ。
「キリル!?」
エリカの声に反応し、びくり、と目の前の黒髪の頭が震えた。同時に、エリカの後頭部と背中に回された腕も震え、やっとのことでエリカは状況を把握した。
(私、滑って転んで……キリルに助けられて、抱きしめられてる!?)
状況を把握すれば把握したで、エリカは急激に心拍数が上昇し、顔が真っ赤に染まる。前を歩いていたはずのキリルが、エリカの悲鳴に反応して戻ってきて助けた、おかげで頭や体を床に打ちつけずに済んだ——しかしキリル、とんでもない反応速度である。
入り口にいた衛兵たちがやってきて「大丈夫か!?」と声をかけてきていた。キリルがのそりと、もう片方の腕で床を押して起き上がる。ようやくエリカの背後にある腕が動き出し、エリカの上体を緩慢に起こした。
その途中、エリカはキリルと目が合った。間近にあるキリルの青灰色の瞳に、エリカは自分の顔が映ってしまっていることに気づく。情けないやら、泣きそうやら、訳の分からない顔をしているのに、頬は熱くてしょうがない。
起き上がって、ぺたりとタイル床に座り込んだエリカは、すでに立ちあがろうと片膝を立てるキリルの足元を見て、目を丸くする。
「……砕けてる」
本来であれば白と淡い青のシンプルな幾何学模様が入ったタイル床は、そこの一枚だけ金枠を残し、キリルの革靴底によってタイルの中央に激しく負荷がかかったらしく、中心部から粉々に破壊されていた。
ところが、そこだけではなかった。
「ん? ああ、あちらも砕けたと思うぞ!」
「あちらって……」
「あそこから跳んだ。咄嗟のことで、ここを踏み締めて止まったものだから、しっかり砕けたな!」
キリルが背後の床を指差す。持ってきた木製トランクが置かれたすぐそば、そこもまた、二、三枚ほどタイル床が破壊されていた。いや、それだけで済んでよかったというものかもしれないが、とりあえずエリカの耳に届いた破裂音はどうやらタイルが割られた音だったらしい。
エリカは集まってきた衛兵たちの手も借りて立ち上がり、帽子を回収してサマードレスのスカート部分の埃を払う。といっても、清潔な場所ゆえに汚れなどまずないが——その作業中はキリルから目を逸らせる、つまり照れ隠しである。
今まで意識しないようにと気を付けていた反動なのか、今はキリルを意識しすぎて、エリカは顔を上げられない。
(び、びっくりした。あんなに近くに……っていうか、前も抱えられて逃げたことあったし! 大丈夫、大丈夫、落ち着くのよエリカ。キリルは助けてくれたの、頭打って死ぬかもしれなかったんだから、命の恩人よ!)
エリカは何度か深呼吸して、やっと顔の火照りが薄くなったところで、まず衛兵たちに「心配をかけてすみません、もう大丈夫です」と会釈する。納得して戻っていく衛兵二人の背を見送ってから、エリカはキリルに向き直る——。
が、キリルはエリカのほうを向いていなかった。というよりも、すでにエリカに背を向けて遠ざかっていっている。
「殿下! お騒がせをして申し訳ございません!」
何もかもを無視してでも、キリルが真っ先に駆けつけなければならないその人が、そこまでやってきていた。
その人は自ら木製トランクを拾って、キリルを手で制して、それからエリカへ儚げな笑顔を見せた。
「やあ、エリカ。大きな音がしたから、出てきてしまったよ」
その挨拶の言葉に反して、少しばかり穏やかすぎる声色は、ささやきのように耳へ入り込む。
先端がふわりとしたピンクブロンドが肩に垂れる、線の細い青年は、キリルの主君であるドミニクス王子——ノクタニア王国第一王子ドミニクス・ウァルデマー・ウォルフラム=リリエン・レ・ノクタニア、その繊細さから『
いかにも病弱げで、さらには中性的な小顔の成人男性。王族ともなれば皆美形揃いということもあって、本人はまったく自覚していないが大層な美青年だ。ほんの数年前まで病によって生死の淵を
そのドミニクス王子とキリルが並ぶと、王女と見紛うような魅惑の王子、若く溌溂とした美形の騎士という絵画や詩歌の題材になりそうな光景が生まれるものだから、(王子が滅多に外に出なくてよかった……)と思うのはエリカだけではない。陰から国王、王妃、姉王女と妹王女、それに弟王子たちまで誰かを狂乱させないかと心配しているほどだ。
とはいえ、今のところドミニクス王子の
本物の王子様を前にして、エリカは平身低頭、謝る。何だかんだと王子の部屋の床を破壊したのだ、それ以外にできることはない。
「申し訳ございません。私が足を滑らせてしまって、キリルが助けてくれたのです。その、床が一部、壊れてしまいました。よりにもよって殿下の
ドミニクス王子は、「んー……?」と悩ましく惨状を見回したあと、あっさりとエリカを許した。
「気にすることはない、あとで修理させるよ。それよりも、君もキリルも怪我をしていないようでよかった。さあ、こちらへ」
エリカが頭を上げるころには、キリルがドミニクス王子から木製トランクを強引に受け取り、しぶしぶといった様子でドミニクス王子が寝所のある廊下の先へと歩いていっていた。騎士が主君の前を歩くのは案内をするときだけだ、ドミニクス王子の後ろをついていく前にキリルはエリカへ目配せして、「大丈夫か」とばかりに心配げにしていた。
エリカは即座に頷き、今度は滑らないように、しかしできるかぎり速く、ドミニクス王子のあとを追う。キリルに追いつくだけでも随分と足を動かしてしまったが、横に並んで、ひとまず礼を言う。
「キリル、あの、助けてくれてありがとう」
「うむ」
エリカは思った。命を救われたのに、お礼が少し簡単すぎた気がする。またあとで改めて礼をしなくては、とエリカは心の中のメモ帳にきちんと刻んでおいた。