ふと、エリカは寝る前にベッドに横になりながら、今の状況について思いを巡らせてみた。この世界は乙女ゲームの世界だが、ゲームのようにステータス画面は出てこないし、自動で所有資金の計算もしてくれない。そしてゲーム内では
まず、ノクタニア王国は、かつて夜の女神から賜ったレガリアによって建国された、という王権神授の伝説がある。
ご大層な話だが、ゲームタイトル『ノクタニアの乙女』の由来も実はそこにあった。
それは本来ならばゲーム序盤で貴族学校の資料室にいる謎の老人へ尋ねると判明する、ゲーム開始前の前日譚だ。王子は病に侵され、貴族たちは呪いに恐怖し、魔法道具の開発は停滞に陥ったまま、落日が噂されるノクタニア王国は、国家としての存続を図るため、王家の持つ秘密の神殿で夜の女神へお伺いを立てる。
すると、今もノクタニア王国を見守っている夜の女神は、ある神託を下したという。
〈王国の衰退は免れえぬものの、太陽と月が交互に空を司るように、衰退が過ぎ去ればやがて繁栄へ向かう。少しばかりその時間の針を進めたいのなら——ノクタニアを背負う乙女を探しなさい。時が来れば、自ずとその才覚を現すでしょう〉
それ以来、ノクタニア王国は才能ある乙女を発掘しようと、貴族学校での女子教育に力を入れはじめた。それゆえに、平民でありながらベルナデッタ・ノルベルタが特別に入学を許可されていたのだ。
ゲームヒロインであるベルナデッタはここでやっと自分が貴族学校に入学できた理由を知り、自分のためにも家のためにも——貴族を見返すためにも、『ノクタニアの乙女』になるという目標を立てる。これでやっと隠し要素であるトゥルーエンドへの最初のフラグが立つのだ。
ちなみに、ゲーム序盤の入学したてのベルナデッタは平民出身であることを貴族学校中で散々いじられ、ときには侮辱されるのだが、持ち前の明るさと優しさ、機転の利く性格から苦境を切り抜け、貴族の子女たちを助けていくうちに特別な信頼関係が結ばれていく、というストーリーラインだ。基本的にベルナデッタはお嬢様だが、その向上心は貪欲なほどずば抜けている。その行動原理は攻略対象ルートによって様変わりし、どれも一国を揺るがすほどの影響力を持つようになるサクセスストーリーばかりで、まさしくベルナデッタこそが『ノクタニアの乙女』になる——そのはずなのだが。
今もエリカは一つだけ、気になっていることがあった。
(貴族学校の資料室にいるはずの謎の老人が、いつまで経っても現れなかったのよね。入学から卒業まで一日も欠かさず確認したのに、ベルナデッタが謎の老人に接触した形跡はなかった。だから、今のベルナデッタは『ノクタニアの乙女』を目指す|きっかけがない《フラグが立っていない》はずなんだけど……元から向上心の塊だったのか、ものっすごく熱心に私の言うことを聞いてノルベルタ家を財閥まで押し上げたのよね。だから、《《本当にトゥルーエンドルートに入ったかどうかの確認がほぼできていない》》わけで)
通常、乙女ゲームのシナリオというものは、会話の選択肢や行動の選択などによってフラグを立てていき、それによって発生した条件分岐を通って特定のルートに入り、最終的に到達したいエンディングを選ぶという仕組みだ。いわゆるシナリオゲームにジャンルが分類されるものはすべてこの仕組みであり、実質一本道のシナリオしかない格闘アクションゲームやシナリオ自体存在しないパズルゲームとはもっとも異なる点だ。
だからこそ、フラグ管理と現在の攻略ルート確認が重要であり、ステータス画面で好感度を目視できるシステムでもなければ、それらの進行度をさりげなく教えてくれる説明役キャラクターがいるはずだった。少なくとも、今現在どのルートに入っているかを判断できる特定のイベント発生や各攻略ルート限定で登場するキャラクターの発見があって然るべきなのだ。
ところが、今までエリカがこの世界を歩んできた中で、そういったものはほぼなかった。あるべきはずのイベントが起きず、登場すべきキャラクターがいない。これでは現在どのルートに入っているのか、どの程度フラグを立てているのかエリカには分かりようがない。せいぜい、隠し攻略対象キャラクターであるエルノルドがベルナデッタに好意を抱いていることから、
ただ——逆に言えば、それは
たとえばドミニクス、彼を攻略するシナリオルート以外を通っているならば、本来であれば数年前に病死しているはずだ。エリカが先んじて特効薬を開発して彼が病死に至るフラグをすべて消滅させたからでもあるだろうが、『ノクタニアの乙女』の正規シナリオであれば①『ドミニクスの生存』と②『未だヒロインのベルナデッタとドミニクスの面識がない』ことが
一体全体、どうなっているのか。このまま本当にトゥルーエンドに進むのか、それとも元のゲームシナリオへ戻ろうとする運命の強制力は真面目に働いているのか、いないのか。それが分からないと、エリカもきわめて慎重に動かざるをえない。
ごく単純に、ベルナデッタと攻略可能キャラクターの誰かがくっつきそうになればそのルートに入る、という話であればまだいい。ベルナデッタに近づく攻略可能キャラクターのすべてを排除していけばいいだけだ。今のベルナデッタなら、エリカの忠告を真剣に受け止めるだろうからさほど難しくはない。
しかし、同時に
ただ単にイベントやセリフを見逃しただけ、もしくはモブキャラクターには観測できないものとして処理されていたのか、それともエリカ自身のフラグ管理が失敗しているのか。
(ううーん、考えても考えてもさっぱり分からない……寝る前にこんなことを考えはじめるんじゃなかったわ。おかげですっかり目が覚めちゃったじゃない!)
とにかく、現状のエリカでは、「トゥルーエンドルートに入りつつあるだろうな」という認識以外、ゲームシナリオ中での現在地の確認もできない有様だ。
あるいは、それを考えることすらも無駄な状況にある……という、まったく恐ろしいことさえ思いついてしまう。所詮ゲームに登場するだけのキャラクターにゲームそのものを揺るがすような真似はできないのだ、という創造主たるゲーム制作者からのお告げが下されているわけでもないのに、だ。
(あー、やだやだ! 希望がないように考えるのはよろしくない! 大丈夫、私はちゃんとやっていける! この話は一旦おしまい! 寝る!)
エリカはキツく目を閉じ、ベッドの布団の中に頭ごと潜りこんだ。
しばしば、エリカは自分が『ノクタニアの乙女』世界にいることの意味を考える。
だが、考えたところで無駄だ。前世でプレイしていたゲームの中に転生した、という訳の分からない状況を、整合性の取れる形で説明できる人物などいやしないのだ。たとえゲーム制作者たちだって、知れば首を傾げるだろうこと請け合いだ。
結局のところ、堂々巡りで情報が不足していることしか判明せず、考えを一時中断することの繰り返しだ。いかにエリカが頭脳明晰であっても、こればかりはどうしようもない。
そう、マクロな視点で考えてもどうしようもないなら、ミクロな視点でできることをやっていくしかない。
明日もエリカはルカ=コスマ魔法薬局で仕事がある。それが終わったら、ドミニクス王子へ新しい薬を配達するのだ。
警備が厳重な王城にいるドミニクス王子を訪ねるには、王子の騎士であるキリルの案内が必要だ。終業後の待ち合わせ場所はどこだっけ——。
そんなことを頭の中に思いつくだけ思いつかせて、次第に疲れてふわふわと思考がとろけて、エリカは眠りに就く。
——何もしていないわけではない、ちゃんと自分は前に進んでいる。
朦朧とした意識の中で、エリカは絶望に囚われないよう、しっかりと己を鼓舞した。