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第10話 アメリーという少女-3

 嫌な思い出ばかりの貴族学校でも、アメリーにはお気に入りの講義があった。

 王都一の有名アトリエ創業者である老貴婦人から服飾の文化や歴史を学ぶ、そこそこ人気のある講義で、時折老貴婦人はドレスの仕立てから生まれた恋の物語を聞かせてくれた。

 老貴婦人は、決まってこう言うのだ。

「よろしいですか? どんな少女も、生涯に一度は恋をするものです。しかし、その恋が実るかどうかはまた別の話。だからこそ、私たちはその恋を実らせるために努力するのです。私などは、ドレスを仕立てて、そのほんのお手伝いをしているだけで、対価としてきらめくような恋物語の傍観者にさせていただいてきたようなもの。胸をときめかせるドレスの数だけ、美しい物語があったということよ」

 人は、美しい物語を耳にしている間だけは、優しくなれる。

 この講義中は、誰もアメリーを気にすることはなかった。老貴婦人の語り口は耳に心地よく、夢のような世界へと誘ってくれる。単調な歴史も興味のない異国のことも、老貴婦人のストーリーテリングにかかれば見事なおとぎ話に早変わりするのだ。

 アメリーのノートには、昔々の衣服や異国の事情に合わせた衣装が、毎ページたくさんスケッチされていた。見たことのないシルエット、触ったことのない布生地、金銀のボタンや水牛の角で作られたヒール、精緻なレース刺繍に未知の縫製。少しかじっただけの服飾知識で、アメリーは老貴婦人の話に出てくる服を一生懸命想像し、毎回スケッチに起こしていた。

(寒いところは全身に毛皮をまとうと聞くし、やっぱり仕立ては寒さを遮るよう頑丈なのかしら……でも、毛皮は分厚いから、普通の糸では縫えないのかもしれない。であれば、何で留めるのかしら、ボタン? それだけだと少し不安だから、内側にも小さなボタン留めを作って補強したり……? そういえば、なめし革は手に入るのかしら? 南の国に多いと聞くけれど……? ああ、己の知識不足が恨めしい。私は今まで、何をしていたの!)

 うーん、うーん、と講義教室の最後方にある机に独り向かい、アメリーはいつも悩んでいた。

 アメリーとて、貴族の令嬢として、ちょっとした縫製や刺繍は嗜んでいる。しかしそれ以上に、アメリーは何かを仕立てることが好きだった。ただひたすらに布地へ糸を通し、形作って服や小物が生まれていくさまを見ることは好きだった。無地のハンカチに刺繍の花がいくつも咲き誇り、色とりどりになっていくことも達成感があってとても嬉しい。

 何よりも、布に向かっている時間は、喋らずじっとしていても誰にも怒られない。目の前のことに集中して、完成度の高い作品ができるたび、その価値を知る人間は思わず唸って認めざるをえなくなる。そんな光景がアメリーの希望となって——生きていくというよりも、もっといいものを作り出していくという人生の目標となっているほどだった。

 週に一回だけの服飾の文化と歴史の講義は、アメリーにとって貴族学校での唯一の楽しみだった。

 ところが、講義の終了後、大方の生徒がいなくなった教室を出ていこうとしていたアメリーは壇上にいた老貴婦人に声をかけられた。

「あなた、そう、濃紺と緋色の髪が綺麗なあなた。ちょっとおいでなさいな」

 濃紺と緋色という珍しい髪色は、貴族学校中を探してもアメリーしかいない。アメリーはおっかなびっくり、何か叱られるのだろうか、と戦々恐々しながら老貴婦人の前に立つ。

 普段は大人物として壇上で講義する老貴婦人だが、近くで見ると案外背は低く、壇上にあってアメリーと同じくらいしかない。小柄な老婆は、けれどエレガントなケープとセットになった薄緑のツーピースをまとい、ほのかなラベンダーの香りを漂わせている。

 老貴婦人は、にこりと上品に微笑んで、アメリーへこう言った。

「あなた、いつも真面目に私の話を聞いてくれているわね。そんなに服飾に興味があるのかしら?」

 老貴婦人は自分を見ていてくれた。そのことに、アメリーは心が躍る。

 しかし、すぐにアメリーは現実に立ち返って、少し考えて返事をする。

「はい、とても。でも、私は……自分を飾ることには、興味がありません」

「あら、それはどうして? あなたくらいの年齢の娘なら、誰よりも美しく着飾りたいものでしょう?」

 アメリーは静かに、首を横に振った。

「なぜでしょう。私は、そういうことにはまったく興味がないのです。誰かのために……そう、私の友達のために服を作ることなら……ああ、ええと、私の友達というのは、昔、母からもらった人形たちのことで」

 アメリーが友達と聞いて思い浮かぶのは、自室のベッド脇にある戸棚に隠した人形たちだ。北方の職人の手によって精巧に作られた八頭身の人形、ガラス製の小さな瞳、スラリとした木製の体と四肢、絹糸で作られた長髪。それら手のひらほどの人形たちに、アメリーは今まで色々な服を着せてきた。買ってきたものもあれば、自分で作ったものもある。小さな小さな布地を、チクチク縫っていく作業はアメリーの性分に向いていた。上手くできなくても、アメリーは諦めない。ずっとずっと、そうしてきたからだ。

 ふと、笑われるだろうか、とアメリーはおそるおそる老貴婦人を見上げた。何を子どもみたいな、と父や異母姉のように叱ってくるか、呆れてしまうか。

 しかし、老貴婦人はそんな心ない真似をしなかった。

「どうぞ、ゆっくりお話しなさいな。次の講義は大丈夫?」

 老貴婦人は、ふふ、と微笑んで、壇上の机にもたれて少し背を丸めて、アメリーへ親身に話を聞く姿勢になっていた。

 久々に、自分の話を聞いてくれる相手に出会って、アメリーは興奮する。

「はい! どこからお話しいたしましょう。私は……」

 この日、アメリーは貴族学校に入学して初めて、誰かと長々とおしゃべりした。

 今まで誰ともろくに話さず、いじめられて、引きこもっていた令嬢にとって、望外の喜びだった。老貴婦人はアメリーの話に真摯に耳を傾け、相槌を打つ。馬鹿にすることも、茶々を入れることも、話を台無しにすることもしない。

 たったそれだけのことが、今までのアメリーに誰もしなかった態度だった。父のアルワイン侯爵はアメリーを毛嫌いし、異母姉はアメリーを嘲笑い、母はアメリーを無視するばかり。使用人も家庭教師も、主人に従ってアメリーを侮り、どうしようもなかった。

 もしくは、老貴婦人はアメリーを知らないからこそ——いや、そうではない、そう思いたい。アメリーは期待しすぎないよう自戒するが、それでも理解者を得た喜びはどんどん心に溢れてくる。

「大切なお友達が美しくなるために、あなたの指は針を持ち、糸を操り、布から作品を生み出していくのね。素晴らしいわ、それこそが職人の気構えマイスターシップ。あなたは職人になる素質があってよ、アメリー。もっとも、それが幸か不幸かは分からないけれど」

「……はい。このことは、あくまで趣味としてやっていくつもりです」

 いくら職人に向いていると太鼓判を押されても、アメリーは侯爵家の令嬢だ。貴族の一員が、職人になることなど決して許されない。

 それを老貴婦人は嘆きつつも、アメリーへ助言をしてくれた。

「残念ね。でも、人生はいつ何が起きるか分からないものよ。チャンスを待ちなさい、それが私からあなたへあげられる唯一のアドバイスよ」

 アメリーは真剣に、ゆっくりと頷く。老貴婦人の助言の意味を、心の底から分かっていたからだ。

 いつか、必ずこの苦境は乗り越えられる。明けない夜はなく、冬はいずれ春になる。そう信じて、アメリーは耐え忍ぶことを選んだ。

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